私と東腎協の30年
高橋 勇二郎(東腎協常任幹事)
 1944(昭和19)年生まれ。72(昭和47)年9月透析導入。75(昭和50)年から東腎協の役員に。80(昭和55)年から2001(平成13)年まで副会長を歴任。東腎協の運動をするかたわら、この間の10年間は全腎協の広報部長としても活躍。
1 初期の透析医療と医療費問題
   
【苦難の透析導入】
 今から30年前、1972年(昭和47年)8月11日その日から透析が始まった。町の小さな病院の個室に絶対安静ですとすでに2カ月寝かされていた。真夏の西日が照りつけ、室温は37度にもなる4帖ほどの小さな個室であった。担当医の決断で、その日腹膜透析が実施された。この病院では初めての試みであり、マニュアルは灌流液の製薬会社が付けてきた説明書のみであった。試行錯誤の後やっとおなかに穴が開き、チユーブが入れられ、腹膜透析の開始となった。おなかに入れた透明の透析液も排出する時は茶色になって出てきた。1日数回の透析の後、またチューブを抜き、穴に栓をして1日を終わった。偶然にもその日は、私の28歳の誕生日でもあった。

 順調に行くかと思われた腹膜透析であったが、3日後、事故が起こった。毎日行うはずの穴開けの際、おなかの中の血管を傷つけ、出血し、血が止まらなくなったのである。入れた透析液も真っ赤な排出液となり、緊急に透析は中止となり、穴はふさがれた。そして危篤状態に陥った。兄が呼ばれた。兄と同じ血液型であったことが幸いして、採血と輸血が同時に行われ、一命を取りとめた。しかし、一度透析を行った腎臓は、急速にその腎機能を落としていった。じわじわと尿毒症は進み、1カ月後には、絶えず頭や手足が震え、パジャマのボタンをかけることも、顔を洗うこともできなくなった。頭の中は大声をあげて廊下を走り回りたい衝動などで、気も狂わんばかりであった。だが不思議に死にたいと思うことはなかった。死んだら、ずうっとこの状態が続くものと思っていたから。

 この状態から脱したい一念で、担当医にお願いした。失敗してもいいからもう一度腹膜透析を試みてもらいたいと。再度の腹膜透析へのチャレンジは成功した。一晩寝て、朝起きた時に感じた爽快感は生涯忘れられないだろう。昨日までのすべての症状はうそのように無くなり、体に力がみなぎり、そして生きている幸せをかみ締めた。

 日曜日以外の毎日、1日5回の腹膜透析は順調に続いた。しかし社会復帰するには、血液透析をしなければならないこと、血液透析をする病院は数少なく、透析機械不足から、満床で受け入れてくれる病院はないことが告げられた。

莫大な医療費自己負担
 腹膜透析が始まると、1カ月の医療費の請求は莫大なものとなった。この状況は後に血液透析が始まっても同じであった。国民健康保険に入っていた私には3割負担があり、月に約二十数万円(当時の大卒初任給は約5万円)の請求書がきた。すでに社会保険本人(いわゆるサラリーマン本人)は負担がなく、また指定病院のみが更生医療が適用されて一部負担で済んでいたが、自分には適用されることはなかった。最初は数カ月で済むと考えていた自己負担であるが、生涯続くと聞かされ驚いた。自分の財産を全て処分しても、1年位しか生き延びられないことが、すぐ計算できた。まずワーカーさんの力も借り、病院長あての嘆願書を書き、個室の差額ベッド代を免除していただいた。

 また町役場に家族が出向き、生活保護の中の医療扶助の申請をした。すでに独立して家を持ち生活していた私であったが、テレビ、電話などいわゆるぜいたく品といわれるものほとんどが処分され、医療費にあてられた。その上で医療扶助が認められた。

 この状況は、74年(昭和49年)東京都が実施した身体障害者医療費助成制度発足まで続いた。
 その他にも頭を痛める問題はあった。輸血の問題である。当時透析によりおこる貧血解消には大量の輸血でしか対処できなかった。しかも輸血するためには、献血手帳というものがあって、献血した人の手帳を集めなければ輸血してもらえないという制度であった。実際にはお金でお願いするというものであった。その後、全腎協や世論の声もあって、日本赤十字社の協力が受けられ、手帳無しに輸血できるようになった。しかし、その血液も今のように洗浄されたものであったり、成分のみであったりすることはなく、生の血液そのままであった。私の輸血量は200mlが30本ほどにのぼった。

選ばれた人たちの血液透析】
腹膜透析開始後、半年程して気持ちが決定的に落ち込んだことがあった。あるアルバイト医の話であった。「このまま腹膜透析を続けていても、一度でも腹膜炎をおこすと透析できなくなるよ。また保険でかかれる病院を待ち続けても、空きがないから、自己負担してでも透析可能な病院を、できるだけ早く捜したほうがいいよ」との助言であった。あせっても、お金も、人脈もない私にはどうしようもないことであった。

 腹膜透析を始めて10カ月後、幸運にも近くの西新井病院で試験的に血液透析を始めるとの話が舞い込んだ。早速担当医の紹介状を持って、透析医の面接を受けた。後に知ったことではあるが、その紹介状の内容は、将来この患者がいかに世の中の役に立つ人物であるか訴えた、すばらしい内容のものであったとのことである。

 2名の透析医は30歳代前半の若手でチャレンジ精神一杯であった。大学病院の勤務後、アルバイト出勤し、週2日、夜間のみ午後7時から6時間の透析を行い、患者はそのまま翌朝までベッドで仮眠をとり、そこから出勤させるという予定が組まれていた。

 受入れは7名のみであったが、幸運にもその7番目に滑り込めた。それまでの病院では、私に続けて同じ腹膜透析を受けていた若い主婦がいた。そのひとは紹介されることはなかった。転院する際、「自分は一足先に行って血液透析を受けるが、うまくいったら必ず迎えにくるから」と伝えて別れた。
 まもなくして彼女は亡くなった。

2 患者会と東腎協活動

【病院患者会設立】
 血液透析を開始してから2週間で退院し、社会復帰を果たした。この時、「自分は助かってよかった、感謝します」だけでは済まされない現状への漠然とした怒り、そして大きな責任と使命を感じていた。少しでも仲間の役に立ちたいという気持ちとともに、皆で協力してこの病気に対処しなければ、我々は生きていけないことを実感していた。

 全腎協や東腎協が設立されたことは新聞報道などですでに知っていた。まず病院患者会を設立した。病院スタッフの協力を得て、勉強会、栄養指導会などに活発に取り組んだ。

 その中で、尾瀬旅行は特に思い出深いものになっている。桧枝岐(ひのえまた)村で一泊し、翌朝マイクロバスで麓まで行き、そこから歩いて沼山峠を越え、長蔵小屋までを往復する計画であった。ほとんどの患者と家族、2名の医師、全スタッフなど30人近くの参加となった。綿密な計画が立てられ、薬、血圧計をはじめイス、ロープなども用意された。イスとロープは正解であった。イスで休み休みしながら、「電車ごっこ」の如く、患者の腰にロープを巻き、それをスタッフが引き上げる作戦となった。健康な人なら、片道2時間もかからない距離を、倍以上の時間をかけて歩いた。ニッコウキスゲが草原一面に咲く中を歩き、長蔵小屋に着き、冷たい湧き水でうがいをした時は、皆生きている幸せを感じた。

 しかし、他に笑い話もあった。山頂で栄養士さん特製のおにぎりとおかず入りの昼食弁当が配られた。大きな梅干しが入ったおにぎりに患者は、おいしいおいしいと言って、たいらげた。スタッフはほとんど無塩に近い弁当を黙って食べた。食後すぐに気がついたが、後の祭り。栄養士さんの全くの手違いで逆に配ってしまったのだ。それもかえって、患者とスタッフの相互理解につながり良い結果になった。この旅行をきっかけに、皆自信を深めていった。

 そして、74年(昭和49年)第2回東腎協総会から「西新井病院友の会」として全員名で東腎協に団体加入した。私の病院患者会での活動はその後も続き、96年(平成8年)に転院するまで、23年間にわたり、ほとんど一人で、毎月の集金から会運営までこなした。その時、会員も120人にもなっていた。その間、100人近くの友の死に立会い、見送りもした。

東腎協活動
 75年(昭和50年)から東腎協役員になり、全腎協、東腎協のほとんどの活動に参加した。

 東腎協事務局は全腎協に同居する形で民間のアパートの一室に開設され、活動もほとんど全腎協と一緒に行われた。国会請願や都議会要請を通して、自分たちの願いが次々と実を結んでいった時期である。特に74年(昭和49年)、美濃部都政が行った「心身障害者1・2級の医療費助成(無料化)」と「福祉手当(当初月額5千円)の支給」は大きな成果であった。その助成を求めて、東京近県から多くの患者が東京に集まってきた。私も籍を東京の実家に移し、生活保護を打ち切ることができた。夫婦別居の形をとり患者仲間の家に住民票を移すなどして、埼玉や栃木から通院していた者もいた。

 80年(昭和55年)代に入ると、国の医療費抑制策が強化され、透析患者にも大きな影響を与えた。特に84年(昭和59年)の健康保険改革案では、健保本人にも1割(本則2割)の負担をさせるというもので、会をあげての反対運動に取り組んだ。

 厚生省交渉では「私が通院する病院には約20人のサラリーマンがいて、しかも更生医療の指定病院にもなっていない。この改革案が成立すると、月々約5万円の自己負担が出るが、それでも生活できると思っているのか」と厳しく詰め寄ったが、役人は下を向いたままで答えなかった。反対運動はさまざまな形で行った。デモ行進や、全国からの改悪反対のはがき運動をはじめ、市民団体が主催する会合での説明など、あらゆる機会をとらえて訴えた。最後には旧厚生省前の冷たい階段に徹夜で座り込んだりした。

 にもかかわらず、残念ながら健康保険法は改悪され、健保本人に1割(本則は2割)の自己負担がかかるようになった。しかし同時に透析患者と血友病患者については、全国どこでも、月1万円の負担で済む「長期高額療養費制度」ができ、透析患者は救われた。また更生医療の指定について、基準が大幅に緩和され、指定病院数は増大した。結果として、それまで東京に流れ込んでいた患者も地方に帰って行った。

 これらは、やはり運動の成果ではないだろうか。

【繰り返しの運動】
 毎年行ってきた都予算要請や国会請願の他に81年11月には、初めての「腎バンク登録者拡大全国いっせい街頭キャンペーン」が実施され、上野、新宿、渋谷にて92人が参加して行われた。

 87年には第1回「腎臓病を考える都民の集い」が東腎協15周年記念として開催された。
 これらの活動は自分たちの予算を使い、全国にさきがけてのものであった。一見毎年同じことの繰り返しに見える運動であったが、行政を動かすまでには、5年も10年もかかっている。

 要請の時、一担当者であった者が十数年後には幹部になって東腎協、全腎協の良き理解者になることも珍しくなかった。その後、東腎協の歴代の会長を補佐する副会長の役割をずっと務めてきた。

 東腎協の活動も全てが順調にいったわけではなかった。財政難と人材不足は絶えず付きまとった。特に3代目会長の宝生和男氏や4代目会長の石川勇吉の突然の死亡は、東腎協事務局の運営をピンチに立たせた。泉山知威、一ノ清明らとともに、まだ若く、日中は働いている副会長たちであったが、夜間や土曜、日曜はがむしゃらに事務局をカバーし運動を続けた。そんな時、森事務局長が草間事務局次長とともに、世間では考えられない程の全くの低賃金で事務局に勤務し、東腎協運営は安定した。

 しかし大きなイベントや運動の後には必ずといっていいほど、役員から犠牲者が出た。6代目会長の竹田文夫をはじめ事務局の草間和男をはじめ、石川みさや中田青攻、森田廣明など貴重な活動家らが命を落としていった。

【全腎協広報部長として】
 全腎協役員も全腎協設立20周年から30周年までの10年間、兼務した。ほとんど無報酬であったが、広報部長として、会報「ぜんじんきょう」の編集作業にかかわった。また「透析をはじめる人のためのガイドブック」や「高齢透析患者のためのガイドブック」などの執筆にも取り組んだ。

 広報部長として心がけていたのは、東腎協との橋渡し役はもとより、会報の編集にあたって会員一人一人が今一番何を望んでいるかを見極め、その情報を正しく解りやすく伝えることであった。
 「世界に誇れるほど日本の透析技術が進んだひとつの理由は、日本の透析患者団体の全腎協により、患者のだれもが同じ情報を持ったことに起因する」との評価もされている。

 また会報の中から、将来の生き方までをも見出す手助けになればとも思っていた。全腎協設立20周年からは表紙をカラー化し、設立25周年からは、法人になったこともあって、A4判化と文字の大型化などにも取り組んだ。また、会員紹介のコーナー「はあとウオッチング」では全国の会員さんの中から、すでに社会的地位にある人や健常者に負けずに頑張っている人というイメージより、一味変わった価値観、スタイルを持った生き方をしている人を取材した。
 その紹介記事の中では一切「透析」ということばが書かれない時もあった。それは透析にもかかわらず頑張るというより、お金や利権と離れた、他人とは違う価値観を持ってもらいたいとの編集者の思いも込めていた。

 昼間は自分の家業(電気店勤務)、夜間は透析、そして夜中家に帰り、締め切りに追われての原稿書きと、忙しい日を続けることも多かった。
 ワープロ、パソコン、ファックス、コピー機、その他事務器一式を自前で用意して事務局と対応した。長い期間の会活動であるがうれしいことも多かった。それは東腎協、全腎協に対するものであり、私個人に対するものではなかったが、会員自身の感謝のことばや、医師や医療関係者の評価のことばをいただいた時は、裏方としての苦労が報われた思いがした。

 長期透析による合併症がいろいろ出て、負担となり、地方取材など行動が困難になったことから、昨年、全腎協理事を降ろさせてもらった。そして東腎協活動一本に専念することにした。まだまだ頭が動く間は、役員として皆さんの役に立ちたいと願っている。

3 生涯続く腎臓病との付き合い

【発病そして入院】
 自分が腎臓病とわかったのは、大学4年の就職試験の時だった。当時、早大理工学部にいた私は、就職を全く甘く考えていた。東大、東工大などとともに大学の推薦枠に入れば、ほとんど無試験で就職できた時代であった。

 ある大手企業に内定し、実習と称して幹部教育を受け、社長との昼食会などにも出て、すっかりその気になっていた。しかし最後の健康診断の後、不採用の連絡をうけた。他に2社も受けたが、同様に内定が取り消された。
 何が起こったのか解らなかったが、病院で検査をすると、尿にたんぱくが出ていた。それでも1年も療養すれば、病気は治るものだと信じていた。

 卒業後、二度大学病院に検査入院をして、お腹を開いてみるまでしたが、慢性腎炎であるから、安静にしている以外、治す方法はないと言われた。食事指導もなかった。しかもずっと出されている腎臓病の特効薬が、すでに一部で目の障害や失明の恐れのある、薬害のクロロキン製剤であると知り、全く医師不信におちいった。

 その後は通院を止め、漢方をはじめ、ハリ、灸、信仰まであらゆる手立てを尽くした。一方、卒業後は兄と電気工事店を立ち上げ、順調に業績を伸ばしていった。頭の片隅では絶えず病気のことを考えながら、忙しさにまみれて仕事に打ち込んでいた。

 4年後、千葉県に土地と家を求め、独立した。しかし体力はそこまでであった。風邪薬をもらおうとして町の病院に行くと、即入院を命じられた。どうしても入院したくないと言い張ったが、そこの婦長さんにこんこんと諭され、入院が決まったのである。

【友の死と結婚断念】
 腹膜透析の初期は前述のごとく、精神的にも苦しい時であった。個室で悶々としていた私を、しばしば訪ね励まし続けてくれた人がいた。若い女性の栄養士さんであった。もし将来、社会復帰できるようなことがあったら、絶対この人と一緒になろうと思っていた。

 血液透析を開始し、社会復帰も果たし、彼女と会う機会も増えたが、血液透析も想像以上に厳しいものであった。週2回、1回6時間の透析であったが、人工腎臓はコイル型で、1回2kg以上はどうしても水分が抜けないものであった。そのため心臓に水がたまり、次々と友が亡くなっていった。1年間の生存率51%、3年後には7人のうち1人しか生き残らないだろうという現実の前に、彼女をあきらめざるをえなかった。一方的に自ら会うことを禁じた。

 その後も会を代表して、友の死に立ち会った。そのほとんどが30歳代、40歳代の男性であり、社会的な付き合いも浅く、葬儀は寂しいものであった。出棺させまいと取りすがる若い奥さんと幼子の姿は修羅場そのものであった。その度に、自分は結婚しなくて良かったと思った。

人生観の転換】
 むなしさや寂しさを忘れるために、仕事や会活動に力をそそぎ込んだ。

 血液透析6年目の夏、自分に自信が持ちたくて、ひとり富士登山に挑戦した。ヘマトクリット20数%の身には、厳しいものであった。まるでエベレスト登山をしているような、休み休み、一歩一歩の登山であった。登頂を果たし、それなりの満足感はあったが、同時に健常者との違いも実感した。
 しばらく考えた末、今感じている劣等感は、健常者と同じ土俵に立ち、優越感を得たいとの意識の裏返しにすぎないことに気づいた。

 ある本で読んだ。ぜいたくとは「熱帯ジャングルの中に、冷房のよく効いた豪邸を建て、居間には真っ赤な暖炉を焚き、その前でよく冷えたビールを飲む」ような人工的な落差を作って楽しむということだと。
 落差では我々も負けてはいない。長時間の透析で血圧も下がり、気を失う。そして生理食塩水が入れられ、再び生き返る。その瞬間の恍惚感はやみつきになりそうだ。その他、週2回の透析から週3回の透析になり、それまで乾燥食中心の食事が1日3食ともごはんが食べられるようになった時の喜び、造血ホルモン剤エリスロポエチンの開発による貧血の劇的な改善など例を挙げたらきりがない。

 ちょっとした価値観の変更で、気持ちが楽になったり、人生の幸せが感じられるものだ。

 また自分のことでは、98年(平成10年)までの10年間、次々と両親の介護を経験した。老人保健施設のショートスティや病院のデイケアサービスなど福祉制度をいろいろ利用することで対応してきた。これもその後の介護保険制度や高齢者対策を考える上で貴重な体験となっている。

 私自身が「3年B組・金八先生」の撮影地、下町の北千住に育った関係から、「男はつらいよ・柴又の寅さん」の世界を愛し、それに慰められたり、励まされたりしながら過ごしてきた。

 短くも、長くも感じられる腎臓病との付き合いであるが、この試練は精神的に自分を強くするには、ちょうど自分の身の丈にあったものであると思う。また会活動も自分の環境にあればこそ、でき得たことと感謝している。

 

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 東腎協30周年 あゆみ P47-54


最終更新日:2003年2月11日