V−1 私の闘病記:インタビュー - あゆみ東腎協の30年

加島恵子、山田洋司、猪狩奈美枝、岡正博、伊藤勲さんは、「10年誌」で手記を寄せていただき、「20年誌」では、編集委員会のメンバーがインタビューをしてその後の透析生活をお聞きしました。そして、この「30年誌」では、その後の10年間の透析生活をインタビューして長期透析者の生き方を追いました。皆さんが元気で過ごされ、これからの透析患者に良きアドバイザーになって下さい。(編集委員会)
インタビュー/聞き手・押山
前向きに生きる
加島恵子さん

 初夏を思わせる日差しの日曜日、緑豊かな有栖川宮記念公園で、お話を伺いました。
 話はちょっと戻って…、待ち合わせは港区広尾駅。透析歴30年の方の具合は良いのだろうか、歩くのに不自由は無いのだろうかと、心配しつつ待っていると、加島さん、軽快な足取りで登場。元気に初対面の挨拶が済んで、近くの公園へ。
木陰のベンチでインタビュー開始。爽やかな風が心地よく吹き抜けます。

 「3回も出ちゃって、いいのォ〜」とにこやかに話し始めてくださいました。10年誌、20年誌に登場いただいた加島さんに、30周年記念誌でお目にかかれるのは、とても嬉しいことです。そしてなにより、透析の大先輩と話ができることが大いに楽しみでした。

 昭和47年10月に岩手県で透析導入の加島さんは、ご主人と会報「全腎協」の文通欄が縁となり、遠距離の壁を乗り越えて、結婚されました。現在は代々木山下医院にご主人と一緒に車で通院されているそうです。
透析時間は4時間30分。QB(血液流量)160ml/min。

二人なら乗り越えられる

 「夫婦仲はいいですよ」とご主人思いの加島さんです。ご夫婦のコミュニケーションはとてもよく、家庭での会話も多いそうです。
 「ひとりではどうにもならないことでも二人なら乗り越えられますから。愚痴もよく言いますが、後に残さず、明るく生きています」。

 お二人の楽しみは野球観戦で、巨人の清原選手が大好きとのこと。彼のガッツに励まされることもあるそうです。去年は東京ドームに観戦に行ってスカッとしました。
また、仲のよいお友達と旅行や、美術館、博物館めぐりをすることもあります。
 「暇で何もしないと余計なことを考えてしまいます」。と、一日中何かしら身体を動かしています。目覚めはよく、まず身体を動かしてほぐし、毎日散歩をするといった様子です。家事もこなし、日常生活に不便はさほど無いようですし、家事の補助にアイデアグッズなどを上手く利用しています。

昔は身体を動かす仕事(全腎協でもアルバイトをしていた)をしていましたが、今は透析の影響がでて、なかなか昔のようには動かせません。ただ、「できないことを嘆くより、やってできたときに喜びを感じることが大切」と、教えてくださいました。

 東腎協には個人会員で加入されています。
 「病院の患者さんに東腎協の会報を見せても、興味を示して入会してくれる人は無いですね」。
「現在は、透析医療の進歩で体調がよく、医療費の心配も無いので、自分のしたいことにしか興味がないようですから…」と、半ば諦め気味で、がっかりされているようです。

 「そのような最近の患者さんは『感謝の気持ち』がなく、マナーの悪い人、自己中心的な人が目立ちます。『透析患者は(難病患者の中でも)恵まれているのに、好き勝手やっている』と、透析患者全体を見られるのは困りますね」。30年前の透析事情をご存知の加島さんには、今の状況が歯がゆいようでした。

ストレス溜めずこだわらず

 「長生きの秘訣? そうねー、ストレスをストレスと感じないことかな。よく眠ることも大切」。夜中に関節の痛みで目覚めることもあるが、あまり痛みに囚われないようにわりきっています。透析が長くなれば当然のことと受け入れているようです。上手く付き合っていますね。

 また、検査結果なども、一回の検査結果で一喜一憂はしていません。あまり数字だけにこだわらず、自分の体調は自分で感じています。同じものを食べているご主人とも検査結果は違うものだし、自分の体調と検査結果の長期の流れを把握しているそうです。
食事は、水分、りん、カリウム、塩分などポイントを抑えることは自然に出来ている。さすが、透析患者としての自己管理がすでに身に付いているんですね。達人の域でしょうか。

 考えても、悩んでも解決しないことにはあまりこだわらず、出来ることを考え前向きに生きている印象を強く受けました。きっとご主人とも励ましあっている良い関係だろうと想像できます。

 20年誌の加島さんの生活信条「かきくけこ」の心が印象にずーっと残っていました。
  

 今も変わらずこの「かきくけこ」を持ち続けているからこそ、元気でいられるのだと確信しました。
これに加えて、楽天的とおっしゃる前向きな性格が、長期透析を乗り切るコツと見た! 
 インタビューを終え、有栖川宮記念公園の池の周りを歩いて滝を眺めてから、加島さんは家路に着かれました。
お会いして…東腎協に携わっていてよかったなぁ〜、ホントに。普通では会えない人からお話が伺えて…、勇気をもらえて…。自分も合併症で少し苦しんでいるけど、加島さんを見習えばまだまだ出来ることはたくさんありそうな気がしてきた。… 加島さんのパワーはなかなかこの文では伝わらないかナ?

東腎協あゆみ P68-69

インタビュー/聞き手・木村
患者会活動を続けて
山田洋司さん
 山田さんは、昭和55(1980)年に透析導入され、一昨年、59歳でお仕事をやめました。透析になってから清瀬園技能研修センターに入所し、2年間勉強して、ボイラー、危険物取り扱いの2種類の国家試験にパスしました。
 最初、所沢の国立リハビリセンターに派遣され、身体障害者が機能回復練習をする姿を見て、自分もがんばらなければと思い、次の新宿戸山町の戸山サンライズに転勤して、透析しながら15年間、働いてきました。
山田 「息子二人も、上は結婚して、山形にいるし、下も家にいるが就職して、親の務めを果たしたということもある。
仕事で泊まり(夜勤)が重なると、仮眠時間はあるのだが、眠れなくなって、仕事になっても、頭がクラクラしている感じがして、睡眠薬を飲むと今度は、起きられなくなるので、辛かったです。
今は普通の暮らしになったので楽です。体もあちこち痛いが、年だと思う。入院はこの10年間は去年、大腸ポリープで、その前の年は腰痛から牽引のため豊島病院に入院しました。
今は、左目がまぶしくて見えないので、日大病院のベッド待ちです。目のせいか、階段を踏み外したりしている。手根管は幸い大丈夫です。シャントは2回手術したが、恵まれていると思う」。

奥さんと二人三脚


 あくまでも、控えめな山田さんです。奥さんとは二人三脚でやってきて、ずっと働いていたそうです。
去年、乳がんが見つかり、すぐ入院して、転移はしていなかったので、手術してすぐ退院できたとのこと。奥さんがベランダの植木を育てているので、手伝いたいが、邪魔になっているらしい。今年は術後だいぶ楽になったらしいが、いつもベッドを用意して横になれるようにしているとのことです。
今は二人とも病人になったと笑っている山田さんです。ご自身もプラモデルの趣味があったが、今は目のせいでやめているとのことです。だんだんできないことが多くなってくるのが、透析者の多くに見られますが、その反面精神性は深まるのではないでしょうか。
 山田さんは今年4月からの透析医療費の診療報酬改定についても不安をもっています。

山田 「収入も年金だけになって、食事加算の廃止で有料になると、食べていけるのか、病院もどこまで賄いきれるのか、心配で、患者が口を出せる問題ではないし、今は透析時間4時間30分やっているが、時間制の廃止で、できるかどうか不安になる。検査の報酬も減らされているので、検査も月に2回は実施していただけないだろうか」。

 どうなるかと不安そうでした。透析患者全体にとって、これは大問題で、月に10万円に満たないどころか、ごくわずかな年金で暮らす患者が大部分なのですから、もう少し弱者の身を考えた行政をしていただきたいと思います。

山田
 「今の人は制度がよくなってから透析に入ったから、昔の悪い時代のことは知らない。大山腎友会は東腎協の前の副会長の柳さんが作って、その後、私が幹事で、次に谷地さんが常任幹事で、宮崎さんが幹事を担当してくれ、また、今は私が幹事を担当しています。

 最近の人は透析導入しても夜間透析で時間もぎりぎりで、来院して、疲れているから透析中は眠っている。話しかけることもできず、旅行なども誘えない。
年1回病院のスタッフと合同で旅行しているので、そういうときにでも、ゆっくり話をして、病院役員になってもらおうと思っても、思うように行きません。土日は休養だといって出てきてくれないし、昼間の人は高齢者で、元気がなく、なかなか、活動してくれというのは無理なので、私が担当せざるを得ない。
『大山腎友会だより』も谷地さんが作ったのを続けて年2回発行している」。

元気な人の参加を願う

 実物を持ってきていただきましたが、立派な患者会だよりで、感心しました。患者会の活動も人が変わっても、継続していくことによって、質も高くなり、定着して来るということも言えますが、新しい人が加わらないと、先細りになってしまいます。山田さんも日帰りの旅行による透析の元気な人がたくさん参加してくれるといいのだがと語っていました。

山田 「今度の診療報酬改定で食事も有料になり、昔に戻ってしまい、不安になって、みんなも、少し感じてくれるのではないかと思っている。患者会を盛り上げて、少しでも不安材料をなくしたい」。


 山田さんが患者会の活動に希望を託している思いが伝わり、東腎協事務局にいる筆者私もますます、力を尽くして、活動していかねばならないと再認識しました。

山田さんは就職のことも当時は人手が足りなかったからとか、清瀬園に入所して勉強する決心はよくできましたねとお尋ねしても、若かったし、切り替えができたからですと、簡単そうにお答えになっていますが、今の若い人たちの中では、集団生活だから、二人一部屋だからという理由で、入所しない人が多いそうです。もちろん、「東腎協」bP40の「会員さん訪問」で取り上げた佐々木勝利さんのように、資格を取るために入所している方もいます。

とにかく、今は、不安材料さえなければ、人生の責任を果たして悠々自適の生活であったはずなのに、医療保険制度の改革で、将来が不安いっぱいになってしまった山田さんとのインタビューは自分の将来の不安を絵に見るようで身につまされました。為政者のさじ加減ひとつで、弱者に対する、政治家にとってはわずかな自己負担増がこんなに影響を与えていることを、政治家諸氏は感じていないのではと、ため息が出るインタビューでした。

東腎協あゆみ P70〜71

インタビュー/聞き手・井上
感謝する幸福の日々
猪狩奈美枝さん
生涯の家を手に入れて

 10年ぶりにお会いする猪狩さんと、東武東上線大山駅前で待ち合わせをした。年をとられ変わられたかな、とあれこれ思い浮かべていたところへ、声を掛けて来た猪狩さんは、10年の歳月を少しも感じさせない位、すごく若やいでいたのにびっくりした。

 思わず、「ちっともお年を取りませんね」挨拶より先に驚きの言葉が飛び出した。
 「最近太っちゃいまして、顔がまるくなりました」と言って、ロングヘアーのおかっぱ頭に手をやり、愛嬌のある八重歯をのぞかせて微笑んだ。

 駅前の喫茶室で、ここ10年の間に何があったのか、お話を伺いに参りましたとの問いに、少々間をおいて、ぽつりと、もの静かに、「やっと自分達の家が持てるようになりました」と声は低いが嬉しそうに話し始めた。


 「4、5年前になりますかしら、マンションですが、やっと我が家を持てるようになりました。広さは3LDKなんです。リビングは十畳位はあるんです。他の部屋も結構広いんです。二人で住み始めた頃は、随分広いなーと思っていたのですが…今はあんまり広いと思わなくなったのです。どうしてなんでしょう」と首を傾げ不思議そうに淡々と言われた。

 10年前お目に掛かった時は、区役所に勤務する健常者のご主人様とご結婚してまだ浅い歳月を高島平の団地でお暮らしになっておられた。その時「今度2DKの広い所が空くので移るのです」と声を弾ませておっしゃっていたことを思い出した。
 お買いになったお家は、どうしてここ大山を選ばれたのですか、3度乗り換えて大山に着いた私は聞かずにいられなかった。

 「ここは結構便利な所なんですよ。マンションも駅に近いんです。それに大山には私の両親が住んでいるのです。実家に近い所が何かにつけて、いいなぁと思っていましたから…いつまで経っても親に甘えていたくて」、といたずらっぽい顔をした。 「実家とは近いんです、5分位しか離れていないんです」とつけ加えた。
 
20年誌にも書いたが、猪狩さんは高校1年で透析に入り、その後お父様の腎臓を移植したが、3年半で駄目になり再び透析に戻られているのだ。
 さぞご両親様も、透析している我が子が近くに家を買い、越してこられたことに安堵感と喜びを持たれていることと思った。

旅行で思い出作り


 透析のない日はどのようにお過ごしですか?
 「よく旅行をします。本当によく旅行に行くんですよ」。

 お友達と行かれるのですか。それともご主人様と二人で行かれるのですか?
 「いつも二人で行きます、たいてい二泊三日で行ってます」。

 車で行かれるのですか?
 「いいえ、いつも電車です」。

 すると透析後出発ということですね。透析後すぐ行動しても大丈夫ですか?
 「ぜんぜん平気です。なんでもないんです」と太鼓判押すようにおっしゃった。

 「金曜日の透析、終ったらそのまま出掛けます。北海道には年3回位は行きますね。九州も行きました。そうそう、ハウステンボスにも行ってきました、とても楽しかったですよ。それから伊勢志摩にも行ってきました。景色のいい所ですねあそこは」とまぶたにその時々の美しい景色や、楽しかったことが浮かんだのか、眼鏡越しに一点を見つめて口をつぐんだ。

 ディズニーランドにいらっしゃったことありますか?
 「ええ、ディズニーランドもディズニーシーも近いからよく行きます。何度行ってもあきないし、面白い所ですね」。

 やはり泊りがけで行かれるのですか?
 「ホテルが近くにありますから泊まりで遊びに行きます」。
 疲れないように配慮していらっしゃると思った。

 ご旅行によくお出掛けになりますが、外食が多くなるでしょう? 体重の増えとか、リン・カリウムの増えは心配ありませんか?
 「体重の増えは1・5sから1・8s位です。多くても2s位しか増えません。カリウムもリンも大体4・5位です」。
 長い透析なのに優秀だと思った。

ご主人様に感謝

 週末にご旅行なさる時ご主人様はお勤めだから、金曜はどうなさるのですか?
 「休むか休暇を取って行きます。役所は、昇給試験を受けて、受かれば役職が上にあがるんですが、役職に就いたら休めないし、なかなか休暇も取れないからと言って昇給試験は受けないんです。万年ヒラです」。
 と笑われたが、猪狩さんはご主人様の自分に対する心づかい、暖かい思いやりに、心から感謝していますとおっしゃった。そして理解あるご主人様とめぐりあったことに感謝・感謝の毎日ですともおっしゃった。
 
店に入って座った場所が悪く,スプーンやコップの音、そして人のゆききが激しく、静かに話される猪狩さんの声が時々、雑音に消されとぎれとぎれに聞こえてくるが、感謝する気持は充分に伝わってきた。

腕にシャントを作る

 「やっと腕にシャント作ることができまして、今、腕で透析しているんですよ」。
 猪狩さんは血管が少々貧弱だったので、シャントが手に作れず足に人工血管を入れて透析をしていたのだ。
 「人工血管のせいかよくつまりましてね、4回も手術したんですよ。パジャマのズボン、長いのと短いのと2枚はいて、長いのを脱いで透析していたのです。今は腕ですのでらくになりました」。

最後に東腎協になにか
 「いつも皆様にはお世話になっています。会員さんを増やそうとは思っているのですが、新しく入ってこられる人はご高齢な方ばかりで、思うようになりません、でも頑張ってみます」と結ばれた。

東腎協あゆみ P72〜73

インタビュー/聞き手・木村
この10年はすごかった
岡正博さん
 両国駅前の「ベッカーズ」で待ち合わせをして会う約束でしたが、店の位置がなかなかわからず、カメラ担当の久保編集委員が探してくれて、ようやく見つかりました。何からお聞きすればよいか、お会いした直後は、言葉が出ませんでした。というのは,椅子に腰掛けてはいたのですが、杖をそばにおいていたからです。

足に影響が出る

 筆者自身も透析25年を過ぎる頃から、腰椎から来る足の痺れのために、歩行補助機を用いてやっと歩いているので、30年を超える透析患者はやはり足に影響が出るのかなと胸をつかれたからでした。

 岡さんは昭和47(1972)年11月更生医療が適用されるようになった年に透析導入され、今年30年を迎えます。10年誌でも、20年誌でも手記やインタビューで取り上げました。
 ご両親が東腎協結成総会に出席され、その後の医療費では苦労せずに済んだとのことでした。
 また、透析導入初期には体調が安定するまで、通院時にお父さんが自転車の荷台に岡さんを駅まで乗せ、駅につくと電車の席に座らせて、一駅一緒に乗って、次の駅で降りてまた戻り、ご自分が通勤していたそうです。
 最初は墨東病院で腹膜灌流を受けていたそうです。手足が痺れ、ろれつが回らなかったが、当時は高カリ血症が医師もわからなかった。

透析で生きられる

 「透析の機械も少なかった時代で、都立大久保病院の医事課に知り合いがいて、透析できました。
 まずい薬を飲まされたり、みかんを食べていたら、駄目だと言われたりしました。それなのにポークソティが出てきて、これは食事が間違っていると思いました」と今は、笑って答えてくださいました。
 墨東病院と大久保病院では食事内容が違っていたので、1週間で歩けるようになりました。とのことです。
 岡さんは、「透析というと、みなさん一生やるということで、落ち込むらしいですが、私はとことん悪い状態になっていたので、もう少し助かる、生きられるという意識が強かった」と当時の心境を切実に語ってくれました。

バレーボールで優勝

 透析を始めて5年ほどして、ヘマトが45にもなって、体調もよく夢でもあるバレーボールの指導をしている江戸川区立小松川第一中学校が区大会で優勝したりしました。
 今は、椅子に座って口だけでコーチをしていられると伺い、やはり、現在の希望であり、未来の希望でもあるバレーとの縁は切れていないと感じました。
 この2、3年は毎年手術ですとおっしゃるとき、笑顔のやさしい表情ですが、その心を思うと、大変なご苦労だと、感じ入ります。
 破壊性脊椎症で左足が歩けなくなって、昭和大学藤ヶ丘病院の整形にかかったが、血小板が少なくて、手術は無理ということになったとのことです。
 その後、田島病院に入院して、東京医科歯科大学の先生から整形を紹介していただき平成11(1999)年7月に手術をしたとのことでした。腰については自覚症状がなく、突然、朝、起きたときに坐骨神経痛で動けなくなったそうです。医科歯科大学に1ヵ月、田島病院に1ヵ月入院し、乗り物はバイクには乗れるが、電動自転車は転倒してあきらめたとのこと、あとタクシーで通院しました。
 手術すれば少しは歩けるようになるだろうとやって見なければわからないので、受けました。そこそこは歩けるようになったとのことです。
 リンについては、副甲状腺を昭和55(1980)年に摘出されたそうですが、その当時は炭酸カルシウムを1日15g(5g×3回)を飲んでいたそうです。

心臓の手術を受ける

 脊椎症の前に、心電図で不整脈がわかって、局部麻酔だけで、5時間もかかる手術をしました。心臓に刺激を出す神経伝導体を焼き切る手術だそうです。やはり、昭和大学藤ヶ丘病院で受けたとのことです。別の不整脈も起きて大変だったが、今は大丈夫です。とのことでした。

 「2000年、2001年、2002年と入院して手術です。これから、頚椎の手術のため医科歯科大学に入院します。8月にベッドが空いたら、入院します。手の痺れと、足の痺れが取れたら、いいのですが」と淡々と話してくれました。

 会の活動については、ご自分のかかわっているバレーボールの連盟の役員にしてもする人がいなくて困っている。そういう公的なことは奇特な人しかやってくれない。今は、自分の生活のことのみ考えている人が多いのではないでしょうか。と東腎協でもいつも、どうして患者会役員になり手がいないのかという話題のときに話しに出る、原因を的確に語ってくれました。

 ご自分が元気なときに甥子さんたちを、思い出作りに連れて行っていたが、今は、逆に、甥子さんたちが、大きくなり、平井の諏訪神社の初詣などに連れて行ってくれるそうです。
 一番下が大学生で、長男の方は、空手をやっているそうです。妹さんのお子さんたちですが、まるで、我が子のことを話すように、うれしそうでした。

 透析と週3回の、中学校での仕事と規則的な毎日を送れるようになったとのことですが、8月に頚椎の大きな手術を控えているので、体力をつけ、元気に挑戦してほしいと、心から願いました(この手術は無事終了し9月15日現在自宅療養していられるとのことです)。

 両国駅の東口で待ち合わせしたのですが、筆者の足のことを考えて、西口に回るとホームまで、エスカレーターがありますよと、親切に教えてくださり、一緒に、西口まで歩きました。筆者よりずっと元気で、歩いているお姿を見て、自分も頑張らねば、歩けるうちは、自分の足でと、再認識してインタビューを終わりました。


東腎協あゆみ P74〜75

インタビュー/聞き手・糸賀
趣味が生きる力を与える   <二重障害を受け入れて>
伊藤勲さん

 4月27日の昼下がり、新宿ワシントンホテルの喫茶店で伊藤さんご夫妻と何年ぶりかで再会しました。伊藤さんは背筋をピンと延ばしてにこやかに迎えてくれました。


 伊藤さんの病歴

 昭和46年2月16日、透析を開始。透析20年目(平成2年7月)に、妹さんより腎臓の提供を受け、移植。透析10年目くらいから、なんとなく物が見えにくくなり、難病の網膜色素変性症と診断。
現在、視覚障害者第1級の手帳を所持。

 退職を決意

 伊藤さんは公安職員として府中刑務所に勤務されていました。
 次第に目の障害が重くなり、腎移植後、3年目頃から、住まいの官舎から歩いて10分くらいの職場に行くにも何度も道に迷い、転倒するようになり擦り傷が絶えず、平成5年12月に54歳でやむなく退職を決意したそうです。
 現職の頃、後輩たちが異動の報告に来て、出世を喜こんであげる反面、帰った後、自分の境遇を思い一人、涙することもあったとは奥様の話です。退職後はストレスの多い都会でなく、母の郷里である千葉の成東町にマイホームを建て、住んでいます。

 ギターとの出合い

 中学生の頃、映画「禁じられた遊び」の中のギターのメロディに感動したのだそうです。高校生になるとギターを手に入れ、楽しんでいました。そのギターも合併症による肩の激痛のために触れることもできなくなりました。腎移植を決意したのもこの激痛からでした。

 退職後、本格的にギターを習おうとギター教室を訪ねました。先生は音楽は耳ですよ、目ではありませんよと、励ましてくれたそうです。去年の5月には、野菊アンサンブルという二重奏のコンサートの舞台に引っ張り上げてくれました。終わったあとの開放感が忘れられないそうです。また、同じ楽しみを持つ仲間といると、視覚障害者であることを忘れさせてくれるということです。

 伊藤さんは「趣味が人生に生きる力を与える」と、城山三郎の小説の一節を語り、ゆったり流れる時間の中、新たな生きがいを与えてくれたギターとともに暮らしています。

 白杖との出合い

 昨年は歩行訓練士に自宅に来てもらい、白杖(はくじょう)にはじめて触れることになりました。
 それまでは、目が見えないことを隠したい意識があり、白杖を持つことに抵抗があったそうです。持ってみると散歩をしていても、すれちがう人たちからよく、声をかけられ、以前より、安心して歩けるようになったそうです。
 早朝の田園を散歩する話を聞いていると、早苗を渡る風がさらさら音を立てている中を体一杯に感じながら歩くさわやかな様子など、大自然の光景が手にとるように浮かんできました。

 「私とギター」で優秀賞

 伊藤さんが利用している読書テープの貸し出しを行っている福祉法人「愛光」で、創立50周年記念の第1回懸賞作文募集がありました。
 メーンタイトルは「新たな人生を生きる」でした。その題名に惹かれ、「私とギター」と題して応募されて、見事に優秀賞を獲得されました。
 千葉点字図書館の点字およびテープ図書になりました。そのテープを恩師の稲田先生にも送り、大感激したそうです。CDに変えて古い透析の仲間の人たちにも聞きました。
 私も聞かせてもらいました。残された五感のうち四感は今日よりも明日を少しでもよりよく生きるために、余すところなくがんばってくれているという伊藤さんの生き方は、私たちに明日への生きる勇気を与えてくれます。

 人との出会いが楽しい

 最近になって、障害は個性だなとつくづく思うそうです。「五体不満足」を書いた乙武さんも言っているように「障害は不幸ではない。不便なだけである」と実感するとのこと。
 社会とのつながりを密にすることが生きがいにつながるし、ギターの仲間や点字図書館の読書テープ利用での交流を大切にしているそうです。

 また、全国で3万人とも言われている網膜色素変性症の患者会でもいろいろな業界の人との交流が深められています。今年は8月に世界大会が幕張で開催されました。千葉支部の支部長さんにも、パソコンを教えてもらっています。
 現職中は話題も少なかったが、今では出会いが楽しみであり、財産にもなっているそうです。

 日々の暮らし

 移植の経過をみるため、毎月1回奥様の運転で、女子医大に通院しているそうです。また、平成9年に心筋梗塞を起こし、その予防薬を服用しています。
 透析を始めた頃はおしっこをする夢をよく見たが、今は好きだった山や、星を見るそうです。夜中に落ち込んだりすることもありますが、読書テープを聴きながら眠りに就きます。
 透析をやっていたのは本当に大変なことをやっていたと思い、女子医大で新しく透析になった患者の声が聞こえてくるとその人の心境を考えてしまうそうです。

 地元では世話役の番が5年に1回まわってくるので、奥様の役割が大きく、すっかり溶け込んでいるそうです。これには伊藤さんも感謝しています。また、老人ホームの慰問にも出かけ、伊藤さんのギター演奏、奥様のお琴の演奏と、お年寄りから大変喜ばれているそうです。

 第九コンサートの合唱に挑戦

 昨年の暮れは東金市第九コンサートの合唱に出演するためご夫婦で応募したそうです。健常者でも難しいドイツ語のコーラスに挑戦する伊藤さんのチャレンジ精神に圧倒されます。二人三脚で、乗り切ったとうかがいました。

 インタビューを終わって
 透析、移植、中途失明と重いハンディキャップに負けない、伊藤さんのあるがままに自分の人生を受け入れた積極的な生き方に、大変、感激しました。


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東腎協あゆみ P76〜77


最終更新日:2003年2月11日