V−2 私の闘病記:手記 - あゆみ東腎協の30年

 

10年になります

新小岩クリニック友の会 當 喜美子

 のどが渇く、吐き気がする、足がつる、仰向けに寝ると胸が重い、階段を昇るだけで心臓がバクバクする。いつもすごく眠くて、疲れる。透析を始める前の私の体調でした。そのせいか透析に入ると少しずつ症状がとれて、元気になっていくような気がしました。

 高校3年の夏、たんぱく尿が出ていると学校の健康診断で言われて、病院で検査をしたところ、慢性腎不全になっていました。思えば、高校2年の冬、インフルエンザにかかり、高熱が出たことがあり、それが原因だったかもしれません。それから10年ぐらい同じ状態が続きました。1ヵ月に一度病院の診察に行き、薬をもらうぐらいで、他に症状がないせいか、普通の生活をしていました。ただ一つ先生から風邪は自分の不注意で引くと言われていたので気をつけていましたが。私は自分の病気に無関心で、薬も飲み忘れが多く、食事制限もなかったので、そろそろ透析になりますと言われたときはただびっくりしました。それまで、テニススクールに通い、前日まで仕事にも行っていました。今想えばとんでもない患者だったかもしれません。透析になってから初めて自分の病気のことに目を向けるようになりました。

 入院生活は2ヵ月でした。はじめは、CAPDの手術を受けましたが、やってみると液の入れかえに普通の人の倍の時間がかかり、毒素も残りデータも悪くなったので、シャントの手術をやり直しました。シャントも拒絶反応で手がはれて痛くて、2週間ぐらいしてやっと針をさすことができました。最初は、片手を固定されてベッドにいることがとても苦痛でいやでしたが、慣れてくると音楽を聴いたり、本を読んだりして4時間が長く感じることがなくなりました。またその間、薬の副作用で高熱が続き、治まったあとは顔の神経が麻痺して、口がうまくあかずきざみ食しか食べられず、笑うこともできず表情筋が動かなくなり完治するのに半年近くかかりました。

 その後退院して透析病院に通いながら、以前の職場に戻りました。週3回非透析日だけですが、私にとって元の仕事に戻れたことは、精神的な面でとても助かりました。ただ残念なことは、透析があるため友達と自由に旅行ができなくなったことです。それ以外は透析導入前と変わらない生活をしています。
 患者会には、幹事の方から勧められ入会しました。その時、はじめて透析の医療費が高額であること、患者の方の運動のおかげで、私たちの透析費用がかからないということを知りました。最初は透析と仕事のサイクルに慣れるのに忙しく、病院や東腎協の交流会にもほとんど参加しませんでした。そのうち時間に余裕ができ、誘われて講演会に出るようになりました。最初、先生や東腎協の方の話を聞いても、難しくて私には理解できませんでした。でも、講演会や交流会に参加して、いろいろな患者さんと接していくうちに、私も病院にただ通って透析を受けるだけではなく、病気や社会のことを学んでいかなくてはいけないという思いになってきました。

 その中で青年部があることも知り、参加するようになりました。病院では午前中の透析なので、同年代の患者さんがいませんでした。そこで初めて同じ年代の方、もっと若い方にも会うことができました。やはり、年代が近いと気兼ねがなく話ができ、若くてもいろいろと勉強をされている方が多いので、まだ未熟で、不勉強な私にはとてもプラスになりました。また、いつも皆さんが明るく元気なので、こちらもパワーをもらって病気なんだと一人でくよくよせず、前向きに過ごそうという気持ちになってきます。

 今年で透析に入って10年になりますが、あまりトラブルもなく、順調にきました。これからも無理をせず、自分の体調に気をつけて、毎日を過ごせればと思います。私はとてもよい時期に透析を受けることができているのですから、これからも自分でできることはして、いろいろな行事に参加していきたいと思います。よろしくお願いします。

生きる

鈴木 智美

私は29歳の時に人工透析をはじめた。それは私自身の意志で、だ。主治医である先生は透析を、とは言わなかった。若いこともあって一日でも延ばしたいと、急な導入にとまどっていた。この先生と会って半年で私は透析に入ることになる。シャントの準備もしないままに。
この主治医の先生と出会ったのは、頭痛に悩まされ、近くの総合病院へ行ったがわからず不安にかられ、自ら都立駒込病院に予約し、確か三度目の受診の時だった。脳神経外科から内科へ移され、腎機能低下が指摘され、腎内科の長井先生に紹介されたのだ。長井先生はまず私を怒った。自分の体を大切にしなかったことを知っている人だと思った。だけど不思議に怖くなかった。ただ、透析という意味のわからない言葉と、先生に呼ばれた父の悲しそうな顔が私を不安へと落としていった。
病院の帰り、父は車の中で一言も話さないどころか、空気も動かさない様子でまるで生きていない人のようだった。私はこれからどうなるのか、考えられなかった。夜がまた嫌いになった。小さな頃と同じあの声が聞こえるようになったからだ。人間は死んだらどこへ行くの? 自分がいなくなったらどうなるの? 私の心はどうなるの?この恐怖につきまとわれると、暗闇に引き込まれそうだった。目をつぶると、このまま終わるのではないか、恐くて恐くて叫びそうだった。考えれば考えるほど見つけられない答えに、身震いした。人間は見えないもの、分からないことに不安になるし、恐いのだと知った。まずは、自分の先にある人工透析を知ろうと思った。少しずつ本も読んだ。悲しいことが書いてあった。30年位前、殆どの人が死んでいった事実、お金とひきかえの命、治療も受けられなかったのだ。私は今という時代に感謝している。透析がこれから私が生きて行く上で、永遠に続くことを知った。1日おきに、雨でも風邪でも休みのないことを。そう、私は人工透析に永久就職となったのだ。それでも私は生きていたいのだ。
私が初めて入院した時に同室になった同年代の女性がいた。彼女は癌治療をしていた。科学療法という方法で月に1週間位入院しているのだが、余命のなかった彼女は本当に力を与えてくれた一人だった。食事制限をしはじめた私に自分より、かわいそうだというのだ。彼女は確かに何を食べても良いけれど、治療が始まると食べるどころではなくなるのだが、今思えばそうやって自分を奮い立たせていたのではないだろうか。
彼女がたった1度だけベッドの上で泣いたことがあった。もっと生きていたいと、そして彼女は言ったのだ。「人工透析をしても生きられるだけ生きてほしい」と…。彼女は亡くなったが今でも私を支えている。人の時間は長い短いではなく、生きてきた中身なのだと教えてくれた人がいるが、本当にそのとおりだと思う。意味のない生はないのだ。弱者が強者に助けられて生きているように見えるけれど、本当は弱者に支えられているのではないだろうか。励ましているつもりが、励まされていることが私には何度もあった。
長井先生に導入しましょうと、私から言ったのは、先生に言われたからではなく、人として生きたいと強く願い、たった一日でも生きたいと切に思ったからだ。先生の口癖であった、「神にさからった科学」であっても、それを望んだのは誰でもなく私なのだ。シャントの準備がされていないので、首の鎖骨の動脈にカテーテルを挿入しての導入となった。1ヵ月位は、まるで虫の触角の様に首からカテーテルを突き出し病室をうろうろしていた。
 生まれて初めて透析をした平成10年1月8日の午後、食事をした後3時間ほどの昼寝は、ここ何年も得られなかった気持ち良い睡眠と目覚めで、私は生まれ変わったことを知った。
 駒込病院を2月下旬に退院すると、3月下旬には小腸出血で再入院となった。2、3日続く腹痛に薬も効かず、ろくに食事も睡眠もとれなかった私はサテライトの先生に駒込病院へ入院させてほしいとお願いしたのだ。そして長井先生に、痛み止めと、眠らせてほしいと要求したのだ。この時のことは、あまり覚えていない。5月初旬に退院し、6月中旬には今度は大腸出血で再入院し1ヵ月を過ごした。透析になると指摘されてから1年の半分を駒込病院で過ごしたことになる。
長く短い1年だった。何度となく、した入院生活で多くの人がお見舞いに来てくれた。同級生、友人、同僚、先輩、上司、仕事上のお客さんまで来てくれた。私はベッドの上でゆっくり考える時間を与えられた。今まで生きてきた中の自分の傲慢さを改めて知った。何と自分は思い上がっていたのだろう。透析を始めて、多くの人に助けられ、生きていることを強く感じ心から感謝している。
透析を導入してから1年間は、病院と自宅の往復でほとんどを過ごした。その当時は次の透析までが未来だった。次の透析まで、水はどのくらい飲めるのかと、尿量の少ない私の水分制限との闘いが始まった。しかし、本当に苦労するのは尿が全く出なくなってからなのだと後に分かることになる。熱いお茶、冷たい水、そして水筒に氷を持ち歩き、買い物に行けば、果物や飲料ばかりが目につくのだ。喉が渇けば、いたる所に自動販売機が置かれ誘惑も多い。どこにいてもお金さえ出せば、何か飲めるのだ。水分が少なくて自分の欲求をかなえてくれる物探しが始まる。かき氷や果物を凍らせたり、飲めなかったコーヒーを飲んだりしたけど、何も口にせず、過ごせる時間があった。それは自分の趣味であるガラス工芸をしている時だった。その時は自分が透析患者であることも、水分制限していることも関係なく、どんな模様にしようかと思案し、思いめぐらせば良いのだ。
 そんな水分制限の闘いの中、サテライトで30年近く透析している中川さんとお話する機会があった。物腰のやわらかな優しい人だった。私は彼の話を聞きたかったが、自分から多くは語らない人だった。しかし、ある日中川さんは私にこっそり言った。「1日しかあかない日に、何も考えずに過ごし、飲み食いしてみなさい」
私は彼の言う通り、友人と出かけた。ずっと我慢しているという気分から開放されて楽しく過ごしたのだ。その次の透析の日、私の体重は何時もより少し多目だった。もちろん、看護婦さんからは少し多目なのを指摘されたが久しぶりに大満足であった。中川さんにはどの位増えたのか聞かれたので、いつもより5百グラム位多かったことを伝えると、「1日コップ1杯分だね」と言われた。そうなのだ、飲めない、飲めないと思っていたけど、たったコップ1杯分の我慢なのだ。そう、考え方なのだと知った。この日から、私の透析生活も少しずつ心にゆとりができ、医療事務の勉強を始めた。人よりも時間がかかってもいいのだ。私は1日おきに休む時間が与えられたのだ。その分人よりもゆっくり進む道を歩んでいるのだ。
駒込病院で私を救ってくれた長井先生が、荒川区町屋に開業したので、今ではそこで透析している。そして、そこで事務の仕事もさせていただいている。とても良いスタッフに囲まれて、同病の患者さん達に励まされながら働いている。私が頑張ることで、透析しても元気で働けるとたくさんの人に知って欲しい。透析という柱が、私の生命と生活を支えているのだ。
病気になって、多くの人に出会い、生きていることに感謝できるようになったことが、一番の財産かもしれない。

一人の力には限界がある

柳原健腎会 小関 盛通

私の腎臓病との付き合いは16歳(高校1年生)の時から始まりました。
入学時の健康診断をしました。その結果、尿に潜血反応が出ているとのことでした。入学してからすぐに私は硬式野球部に所属していましたので激しい運動をしているから尿に血が混じったのではないかと軽く思っていました。2次検診を受けましたが、やはり潜血反応が出ていましたので、野球を少しの間休んでかかりつけの医院へ行き検査を受けましたが、その時は「大丈夫です」と言われやっぱり激しい運動のせいだと別に気にもしませんでした。
しかし、この時の軽く思っていたことが後に大変な病気であったということは考えもつきませんでした。高校2年生になり健康診断を受けました。この時、去年潜血反応が出ていたことなどすっかり忘れていました。しかし、無常にも今度は潜血反応に加え蛋白尿が出ているとのことで2次検査を受けました。その結果、腎臓に炎症があるのではないかとの疑いがでました。これは大変だと養護の先生より「総合病院に行ってきちんと検査してきなさい」と言われ総合病院で検査を受けました。担当の医師より「腎生検をやって詳しく調べたいので1週間入院して下さい」と言われました。自覚症状は、疲れるというだけで特にはありませんでした。普段の練習は、授業が終わり放課後19時位迄、大会前には朝練習も加わり大変疲れていましたので「これはラッキーだ。野球の練習がサボれる」と軽い気持ちでいました。今思い出すと体がやけに皆より疲れていました。同じ練習をしているのになぜだ。と思い練習が足りないと練習が終わってから1時間くらい学校の外周を走っていました。病気を知らないということは恐ろしいことです。
自覚症状がない
入院1週間目に入り「小関君、当分帰れそうにないなぁ」と医師から言われ、こんな元気なのに何を言っているのか初めはぜんぜんわかりませんでした。病院から両親も呼ばれ医師と話をしました。「小関君の腎臓は病気にかかっている。その病名は急速進行性糸球体腎炎です。ほっておくと大変なことになります」と医師から言われましたが、「先生、自覚症状も無いのに入院しなきゃいけないんですか」と尋ねたのを覚えています。
腎臓は自覚症状がまったく無く、恐ろしい病気であるということを初めてそこで知らされました。今度は、検査入院では無く治療の入院に変わりました。すぐに次の日からステロイド剤の大量投与が始まりました。医師より副作用により、顔がムーンフェイスになってしまうと説明を受けて、まだ17歳だった私は「えー嫌だよーかっこ悪いよー」なんて言っていたのを思い出します。しかし、ムーンフェイスにはならなかったのですが、顔や体にとてつもない湿疹が出来て、シャツはいつも血だらけになってしまい今度は皮膚科にも通うことになり、大変困りました。今思うと、とてつもない薬の量を服用していました。
入院が2ヵ月を過ぎようとした時、私にはひとつの悩みが出てきました。高校の出席日数のことが気になりだし医師に相談しました。でも、治療優先と言われ、へこんでいたことを思い出します。なぜなら進級できないことはその時とても嫌でした。勉強と野球をそこそこ両立して頑張ると思っていましたので。変なプライドみたいなものがあったと思います。それから2ヵ月が過ぎようやく病状も安定してきましたので医師より病院から学校へ通学してもよいと許可が出ました。朝起きて検温を済ませ7時ごろ先に食事をさせてもらい高校に通学することが出きましたが、学校が終わると家には帰れず病院に帰るという生活でした。
孤独を感じる
友達からは冗談で「病院に住所移したほうがいいんじゃない」なんていわれていました。その後入退院を繰り返しましたが無事高校を卒業することができました。しかし、就職が出来なかったのです。やはり病気のことが理由でした。2年位はプラプラしていましたが、これではいけないと思い契約社員としてですが就職することが出来ました。とても仕事は順調でしたが、とうとう残念なことにクレアチニンが少しずつ上昇して来ました。その時から低蛋白(1日30グラム)になり栄養指導も受け昼の弁当は毎朝自分で作って仕事場に持っていっていました。低蛋白食は当然主食であるお米が普通に食べられなく、低蛋白米を購入しておかずとバランスを取りながら仕事をしていました。低蛋白食を食べていると普通のご飯がとても食べたくなり本当につらかったです。また友達との外食の機会も無くなりコミュニケーションも少なくなり、孤独感を感じるようになってしまいました。2年位食事療法を続けてきましたがとうとうクレアチニンが7を越え、シャントを作成しました。
このとき「なんで一生懸命やっているのに透析に入らなければならないのか、透析なんて生きているとは言えない」と自暴自棄になっていました。医師より「検査結果をみれば食事療法はきちんと出来ているのはわかる。しかし、もう食事制限だけの問題じゃない。病気の進行のほうが強すぎる。残念だ」といわれました。医師より「透析療法は一生続けなければならない。しかし、社会復帰を果たし健常者と同じように仕事や余暇を楽しむことが出来る」と励ましていただきました。
とうとう透析へ
27歳でとうとう透析を導入しました。はじめは不安がありましたが、クリニックのスタッフや患者会の方々にいろいろ教わり不安は少しずつ解消されていきました。この時すぐに患者会にも入りました。しかし、患者会の意味がこの時まったくわかりませんでした。
透析を導入してから2年位の時、クリニックの掲示板で東腎協青年部の交流会があることを知りました。はじめは、暗い会じゃないかというイメージがありましたので、おそるおそる参加しました。すると、なんと、明るい人たちばかりで、前向きに生きている人達の集団でした。患者会のイメージがこの時変わったのは言うまでもありません。それから交流会、勉強会、腎移植キャンペーンと参加し、東腎協の役員の方々とお会いする機会があり、30数年前迄は、透析機械は不足していて莫大な治療費がかかり、透析をしたくてもできなかった時代があったと聞き、悲痛な思いが立ち込めてきました。自分と同い年ぐらいの人は、簡単に透析をできなかった時代に生きていて、どのような思いで残りの命を過ごしていたかと思うと胸が痛みました。
自分にできることは
自分がこの時代に生きる人間であったらどのように思っていたのかということは、今の透析技術と公費医療の恩恵を受けている私は到底予測もつかず、本当に恵まれているということを忘れてはならないと思いました。今、自分にできることは何かあるのだろうかと考えました。しかし、一人の力というのは限界がある。皆で結束して医療費の改悪が起こらないようにすること。また、今の時代を生きるものとして、これから透析に入らなくてはならない人に安心して医療が受けられるという命のリレーもしていかなければと思います。自分達患者会が声をあげていなければ、国は何もしてはくれません。まだまだ医療費の削減を考えています。透析患者の生活と未来のために皆で結束をして、安心できる医療を守っていきましょう。「一人はみんなのために。みんなは一人のために」

「命の贈り物」を頂いて

森山病院友の会 岸里  悟

はじめまして森山病院の岸里です。東腎協も30周年と長い歴史を感じます。私たち若い年代の人たちが今の透析が公費で受けられていることをどれだけ理解できているのだろうと思います。自分も含めて当たり前のように公費で受けられる医療と思っていました。
何の活動もなくては今の治療を受けられていないことを患者会活動に参加していなければ何も知らずに無料で透析を受けていることに何の疑問も持たずに受けていたでしょう。先輩方の話を聞くとはじめはびっくりすることばかりで、命がけの活動だったことを知りました、このことも先輩役員と知り合わなかったら知らずに週3日の透析を受けていたでしょう、そしてありがたさを知らないで過ごしていたらただ生きているだけで意味のない人生を歩んだかもしれません、それほど多くのことを患者会で学びました、そのことが今では自分の財産となりました。
患者の選択も
私自身機関誌を見たり先輩方に過去の話を聞いたりしながら日々勉強しておりますが、昭和42年12月の人工透析保険給付開始で健保本人だけが負担なし、家族5割、国保3割で毎月20〜30万の支払いができず財産を切り売りして命をつないだと聞いております。そのため透析患者も選ばれたと言います。今と比べようもない切羽詰った状態での会発足だったと聞いております。そのころはエポもなくヘマトクリット16ぐらいの体に鞭打って会活動のため、横になりながらチラシを織り込んでいたそうです。頭の下がる思いと今普通に当たり前のように透析を受けられている喜びを実感していました。マル障のおかげで透析医療に限らず保険診療の自己負担分のすべてがカバーされるわけでそれはとても幸せなことなのだと感じています。それが命を繋ぐ制度であればなおさらです。
前年の全腎協30周年もすばらしいもので全国レベルだとこれだけの力が結集できるのだと思い力強く感じました。協賛もすごく内閣府、厚生労働省など社団法人としての団体なのだと改めて認識しました。「あゆみとどまらず」2のビデオで先輩方の透析医療がいかに大変なものだったか垣間見ることができました。そのなかで私はもう駄目だから機械が1台あくのであなたが受けられるというようなところがあり涙を誘われました。今のように誰でも受けることができない時代を見ることができました。それはまさしく命がけのことで明日生きていることができるかなというような切羽詰った声が聞こえてくるようで、今の状況とまるでちがい、私たちはそういう状況を経験していないので、これからの時代に向けて真剣に取り組まなければ衰退してしまいそうで将来が怖い気がします。
活動が生きる糧
私自身も今3つの患者会活動に参加しておりますが、病院患者会では患者の生の声を聞くことができるので大変勉強になっていて年上の人ばかりなので昔の話とか聞けて参考にしています。また役員も患者会活動盛んな会ということもあり、多くのアドバイスを受けて患者会活動の基本を学ばしてもらっています。江戸川区腎友さつき会では地域の特性を生かし地域単位の活動を勉強しております。東腎協青年部では得意のキャラをいかしもっぱら司会など担当して頑張っています。青年部は東京全体が対象でいろいろな患者会の話も聞けるのでそこら辺も参考にしております。多くの方と知り合うことが自分にとっても、とても重要で生きる糧となっていると思っています。結局人間一人の力はたいしたことないけど多くの人が集まれば、いろんなことができるし、とても楽しいですね。そうして楽しみながら患者会活動しております。これからも人との係わり合いを大事にしていきたいと思っています。
若い人も関心を
これから私たち若い世代が諸先輩方の今までしてきた実績をきちっと把握し理解をして活動をいずれ引き継いでいかなければならない時代が来るのでいろいろ勉強しなければならないと思っております。聖域なき構造改革を謳っている今は透析医療も今のままではないのだと、何もしなければ何の抵抗もなく自己負担しなければならなくなるのだろうと若い私たちにもわかります。今、自分ができることをしなければいけないなと感じています。多分若い人たちが患者会活動に関心を持たなくなったら患者会組織自体が無くなってしまうのではないでしょうか? そしたらどんどん自己負担が増えて皆透析医療を受けられなくなるのではないかと心配しています。3割の負担になって月に15〜20万円払える人は余りいないと思うので命にかかわる問題になってしまいます。いままで先輩たちの作り上げてきたさまざまの制度の成果がここにきて少しずつ崩れていっています。食事も有料になりましたね。1ヵ月8,000円前後の負担でも透析患者にとっては大変な事態だと思います。これからもいろいろ切り詰めるのでしょうけど、透析医療の包括化は医療の質の低下に繋がり、今までよりも質の悪い透析になればわたしたち自身の健康状態にも影響してくるのではないかと思います。明るい話題もほしいですね。そうなるとどうしても医療福祉は切り詰められているのに、議員の不正が次々明るみに出てくると政治不信になりますね。悪いことをするために議員になったのでしょうか? 頭のいい先生たちだと思いますのでいいことに使って医療福祉に期待の持てる行政であればもっと患者会活動も有意義なものになると思います。
最後に自分ごとになりますが、昨年貴重な体験をしました。毎年行われている臓器移植のキャンペーンの成果ともいえるのですが、私自身が昨年暮れに腎臓を移植することができました。いままでいろいろの患者会活動をしてきてもっとも患者会活動の成果を感じた瞬間でした、どんなことも意味のある活動をしていたのだなと思いました。そしてそれは多くの人の活動の成果であるとともに多くの善意があったから実現したことだと思い本当に私自身が「命の贈り物」を頂いたのだなと実感しております。東腎協の事務局の方が言っておられた事なのですが、全腎協結成のニュースを涙流しながら見ていたそうです。そんな気持ちにさせる出来事が腎臓移植でした。現在も拒絶反応と感染に注意しながらの生活ですが、私にとっては希望の見えるものとなりました。このことがきっかけでまた患者会活動の意味を考え皆が希望をもてるような世の中になれば良いと思っています。
前向きに生きる
今現在も入院中で腎臓の拒絶反応と感染症を繰り返しています。そのたびに主治医をはじめ多くの看護婦さんに献身的にお世話いただいており感謝しております。それに何より感謝しなければいけない人はドナーの方でその意思があったからこそ私が腎臓を頂くことができました。「命の贈り物」を頂いたのです。今は亡きドナーの家族の方にサンクスレターを出しました。家族の方の理解がなかったら、反対されて頂くことができないので、そして候補者10名のうちの第2位までにならないと移植できなく年間150例ぐらいの極めて狭き門を潜り抜け実現しました。日本臓器ネットワークのコーディネーターの方からサンクスレターのお返事を頂きましたが、ドナーのご家族の方が本人の意思で腎臓をあげることができて喜んでいると思うとのことで、これからも無理しないで腎臓を大事に頑張ってくださいというような内容の返事を頂きました。
頂いた腎臓を大切にそして多くの人に感謝の気持ちを忘れないで前向きに一生懸命生きていきたいと思います。そして自分たちの時代、もっと若い人の時代へと繋ぐ努力をしていきたいと思います。

二人の孫にもめぐり会う

亀井ミツヱ

大切な二人の孫です
「光陰矢の如し」と申しますが、月日の経つのは早いもので、私は今年で10年になりました。この間を振り返りますと一言では表わす事のできないいろいろのことがありました。

なかでも平成12年2月心筋梗塞を起し「九死に一生を得る」ことができたことです。2年以上過ぎた現在は何とか元気に過しております。つい最近のことでは、ヘマトクリットが22・4まで下りフェリチン(鉄剤)を使用できないのでエポジンの力を借り半年間かかってやっと平常範囲になりつつあります。

今総じて言えることは、この病いは、なんといっても日々の自己管理が一番大切です。食事制限や水分管理には事実つらい時もありますが―今振りかえりますと透析当初、突然死するかも知れないと言われた私が、10年も過ぎて生きていなければ会えなかった二人の孫にもめぐり会い、こんな幸せは当時では想像できませんでした。

西尾院長先生、正木先生、婦長さんを始め大勢のスタッフの方々の献身的な治療と看護そして温かい励ましが、あったればこそと思い、改めて感謝いたします。本当に有難うございました。これからもよろしくお願い申し上げます。

それから今思うと丁度10年前に「東腎協20年のあゆみ」という本が出版され読ませて頂きました。東腎協・全腎協の先輩の方々の努力と活動の結果、今日のような費用のかからない透析ができるようになったことを知り感銘いたしました。

今では当然のことのように思い感謝も薄れがちになり、友の会に入会しない方も多く見られますが非常に残念に思います。10年前は全国で12万人だった患者も今では21万人と聞き、ますます医療をとりまく環境もきびしくなっている現状です。一人でも多くの方々が友の会に入会し患者同士協力しあってまいりたいと思います。私も「老いたるになげかず」何事もプラス志向で感謝を忘れず一日一日を大切に生きてまいりたいと念じています。

透析の不安に打ち勝つ

近藤  卓


冷たいタイルの壁、天井から照りつける眩しいライトの光。「これから俺はどうなってしまうのだろうか?」頭の中ではその質問がグルグルと回っていた。私がシャントの手術を受けたのは平成11年の2月だった。初めて入る手術室は不安感を掻き立てるのには充分すぎるシチュエーションといえる。「透析」という言葉は知ってはいたけど、体験していないものにとって「どういうものか」というのは想像に難しかった。そのため、それは大きな不安となって重く圧し掛かってきたのだ。
私の場合、糖尿病の合併症として透析導入に至ったのである。糖尿病の病歴はかれこれ30年近くになる。現在の年齢は41歳で、糖尿病の発症が12歳のときだ。糖尿病だけのころは、「しっかり自己管理していないと腎臓や目を悪くする」と言われてきたが、まさか本当に腎臓を悪くするとは思いもしなかった。あまり真剣に考えていなかったのかもしれない、と今になって反省しても後の祭りだ。
なんとか、不安にかられながらも手術を終えたのは午後7時近くだった。私が入院していたのは大学病院だったので、入院患者は大勢おり、同室に同じ病気の患者も数人いた。病気についてお互い情報交換などをするようになっていたが、その日は無口になっていた。
辛い水分制限
翌日からは、透析生活に備えた教育が待っていた。透析室の看護婦が担当講師である。教材として分厚い本を渡されたが、読んでみると腎臓の機能や透析する意味、食事療法についてなど、糖尿病の頃のそれとは比べ物にならないほど複雑で難しいものだった。例えば、食事療法についてだが、糖尿病では、全体のカロリー制限が基本で、糖質、脂質、タンパク質、乳製品、野菜類などを指示されたバランスで摂取するという単純なものだ。ところが、透析食の場合、タンパク質の制限が基本となり、さらに、カリウム、リンなどのミネラル分の制限などが複雑にからんでくる。糖尿病食を基本としていると、タンパク質が過剰になってしまい、メニューの組み立てには、脂質や糖質を多く摂らなければならないのだ。糖尿病食の経験者にはこのあたりが理解しにくいところだろう。それと、最も辛いのは水分制限だった。糖尿病の場合、カロリーあるものが制限されるため、ノンカロリーの飲料はフリーとなる。コーヒー・紅茶はもちろんのこと、最近はダイエットを謳ったノンカロリーの清涼飲料が増えており、のどの渇きを癒すときの楽しみでもあった。それが、透析患者にはできなくなってしまうのである。
 このほか、週に3回、4時間という時間を費やして透析を受けなくてはならないというのも、大きなショックだった。私の仕事は結構忙しい仕事で、勤務時間はあってないようなもの。日々時間に追われる生活が続いていた。そのライフワークの中で、透析の時間をどうやって確保したら良いのか?仕事を辞めなくてはならないのか?という不安も頭をよぎった。さらに、2日に1回病院に通うのでは、海外旅行などはもう諦めた方が良いのか…。というガッカリした諦めの気持ちも正直持っていた。
そんな数々の不安を抱えながらも、なんとか無事、透析導入がスムースに進み、退院ということになったのは手術から2ヵ月後のことだった。退院というと、普通は病気が完治して解放されることを意味するのだが、透析の場合は、「病院を移るだけ」のこと。私が移った病院は東海病院といい、透析病院の中では比較的大規模なところだった。
明るい患者会
 私は、本当のところ病院があまり好きではない。病院=病人=暗い、というイメージがあり、好きになれないのだ。ところが、この病院にきて、そのイメージは大きく変わった。この病院での透析1日目の時、患者会の人から声をかけられた。患者会=病人の集まり、というイメージを持っていた私にとっては、患者会に入ることなど以ての外だった。ところが、この患者会の面々はやけに明るかったのである。おまけに、小学生当時の先輩までいて、何時の間にか患者会に参加してしまっていたのである。参加して驚いたのは、凡そ病人の集まりではなかったことである。この患者会ときたら、春と秋にはバスを借り切って1泊旅行に出かけたり、花見のシーズンには花見会で杯を交わしたり、年末には忘年会、さらには病院スタッフと野球の試合までも…。ここまでやると、これはもう病人の会ではない。人生を楽しんでいる方々の集まりといえるのでは。
患者会の活動の中で感じたことは、皆前向きに人生を楽しんでいるということだった。そんなことを思ったとき、透析導入の頃を思い出した。あの頃は不安でいっぱいだった。それは、経験したことのない未知への不安だったのかもしれない。
現在の私には、ちょっと言い過ぎかもしれないが、何一つ不安な気持ちがない。少し前から、何か私にしかかできないことをやりたいと思い始めたのである。そこで、現在取り組んでいるのか、食生活改善プログラムの推進だ。糖尿病から透析導入する患者が急増していると聞き、糖尿病経験者として糖尿病などにならない食生活の進めを全国的に取り組もうとしている。これは米国の民間企業と政府が取り組んだものを日本版にして国内で広めようというものだ。このプログラムは名づけて「5ADAY」と呼ばれている。1日、5単位の野菜・果物を食べようという単純なものだが、昨今の若者を中心に乱れた食生活を正すのにはピッタシの方策なのだ。既に、農業団体、卸業者、量販店、食品メーカー、種苗会社などが賛同の意向を示しており、着々と準備が進められている。健康な人には健康の有難味がわからないというが、我々のような経験者だからこそ痛みがわかるのであって、この痛みが伝えられるのだと思う。少しでも社会の役に立てばと思えるのも、透析の不安に打ち勝てたからだろう。

そして、生きる

白神 慶生

初めて、腎臓を悪くして、1年間休学したのは小学生の時である。39歳の時に再発し、52歳で透析生活に入り、今、年齢は、73歳となった。 透析をはじめた頃は、体調が特に勝れず、週3日職場に辿り着いても、会社のベッドに寝ている始末だった。時には机に向かったが、新聞・ 雑誌を読んでいるだけで、仕事はできなかった。 透析中も、血圧降下・足ツリ・皮膚掻痒・吐き気等に呻吟した。

それでも3年たち、4年経ち、だんだんと慣れるに従って、薄紙を剥ぐように体調は回復していった。透析中は、読書・テレビ視聴をし眠らなかった。気候の良い春秋に近場の旅行が出来るようになった。その当時、患者の平均余命は、7年ぐらいと言われていた。

60歳まで勤務は幸せ

 5年、6年と経過したが、なお、仕事らしい仕事をする迄には回復しなかった。軽いスポーツはしてもよいが、残業など、とんでもなかった。 8年目、勤めていた会社の温情に恵まれ、満60歳までとにかく勤務できたのは幸せであった。この間、最大の功労者は、連れ合いであり介護者である、わが妻である。

 この永い透析の間の大きな悩みは、3、4あるがまず第一に死の恐怖である。周りの患者の死に怯えたのである。死生学を沢山学んだ。しかしなお、死の呪縛から解き放たれず、自ら精神神経科の部屋を訪ねた。二度、各30分余も我が窮情を辛抱づよく聴いて下さり、適切なアドバイスを頂き、後、心安らかになった。

  ――死ぬ時は、死ぬがよし――良寛

眠剤の耐性が

 第二に、不眠症である。元来30代40代の時には、寝台車で出張する時のみ、眠剤を使用し、熟睡して快適な有様であった。透析後数年してから、昼間の透析中は眠らないのに、夜睡くならず、眠剤の助けを借りるに至った。これが3、4年続くうちに、1粒が2粒になり、更に、3粒目を要望する時になって、ドクターストップがかかった。

 この時もまた、精神科にかかり、耐性が生じていることを告げられた。痛切な懊悩を打明ける私に、誠意を以て応えて下さった。「昔の兵隊は歩いていても眠れた」「不眠で死ぬ人は居ない」「心身が必要とすれば、睡れるから心配しなさんな!」心持ちの大切さ、観念の程を教えられ、眠剤の服用を減らして、何とか克服し得た。膝痛・腰痛も体操でいつの間にか凌いでいた。体操は、現在も続けている。30分ぐらいだ。

 さて、現下の最大の障害は、合併症の閉塞性動脈硬化で間欠性跛行症である。3年余り前から発症し、現在U度である。全身の動脈にその傾向が見られるが、特に著しいのが下肢である。まず怠くなり、ついで痛くなり、歩けなくなる。足部は冷たい。約50メートル歩いて、5、6分の休憩を要する。だから行動範囲は、極めて狭くなった。先生には、とにかく歩くことが療法だから、と薦められている。

1時間散歩に出ても、実際に歩いているのは、タッタ10数分で、あとはご休憩だ。現今、新宿まで通院するのが、肉体的負担になってきている。

※運動不足で脚が弱り、老化するのを何とか止めようとしているが、これも運命かもしれない。

 ――人間というものは、自分の運命は自分でつくっていけるものだ、ということをなかなか悟らないものだ――ベルグソン

※酷暑の砌、寒い時は、自宅と最寄り駅との往復は、タクシーである。 去年、脚の手術予定で1ヵ月余り入院し、精密検査の結果、危険が4割ぐらいあるから、と手術回避を示唆され、断念した。当今は、内服薬と注射で対処しているが、良くなりそうにはない。薬には出血傾向の副作用がある。

水分が心臓に

 生命の危機は二度訪れた。1回目は、まだ透析に慣れぬ頃、血圧が急降下し、気分が物凄く悪くなった。丁度、小学生の頃、炎天下で校庭に整列していた時、気持ちが悪くなり、我慢しきれなくなって、失神してブッ倒れた時の感覚に似ていた。が、ベッドの上では、倒れようもない筆舌につくし難い苦悩さだった。看護婦が、血圧の最高値を切迫して、刻々と医師に告げる数字が、30と言った時、意識を失ってしまった。

 2回目。『目が覚めた。薄暗い部屋で、独りで寝ていた。息苦しくて、新鮮な空気が欲しくなり、窓をあけようとした。何と鉄格子が嵌められていてあけられない。牢獄である。無実の罪だ。部屋の扉もあかない。益々胸苦しさが募る。助けてくれー!』と、覚醒した。夢だったのだ。これが前兆だった。

 外国から友人が来、晩餐を共にし、町会の役員会があり、水分管理に疎漏を来たしていたのである。2、3日後、自宅で夜ふけ寝ていた時、突然胸苦しくなり、不快感がどうにもならなくなって、救急車で病院に運ばれた。深夜、医師は直ちにレントゲンで写真をとり、心不全と診断した。続けて3日、透析を実行した。この時の教訓は骨身に沁みた。私の場合、水分が直ちに心臓に来る体質なのであった。これ以後、水分コントロールも優等生と呼ばれるようになった。

妻は明るく

 かくのごとく、透析生活中いろいろなことがあったが、とにかく曲がりなりにも生きて来られたのは、新宿水明クリニックの医師・医療関係者の皆さんのおかげである、と深謝している。先生方の適切なご指導・助言・アドバイス・励ましのお言葉が無かったら、今日の私は無い。

 そのバックには、全・東腎協で、ご努力ご奮闘下さった方々のお力があるのは、忘れてならぬことである。感謝 ! この1年有余、透析後は自宅近くの駅まで迎えに来てくれる。毎食時には重々気配りをしてくれる。重い物は持ってくれ、車中では座らしてくれる。これらは みな妻の功績である。わが身は、不徳なるも、妻はいつも明るく、心映えが美しいものが素晴らしい。

QOLを高く

 小学校から今に至るまでの、各時代の友人、知己と時に昼食を共にして、久闊を叙して交誼を暖めている。当今は、観劇・画廊・美術館等を巡る体力もないが、それでも近くの映画館で孫達とシネマを観る。図書館には、しばしば行って新聞・雑誌を読み、単行本は借りて、家やクリニックでひもとく。当節、読んでいるのは、主としてエッセイである。東腎協の総会にも去年までは出席していたが、今年は脚痛のため欠席した。何とかQOLの高い生活をしたい、と願っている。

 ――されば、人、死を憎まば、生を愛するべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや――兼好法師

 私は、患者としての天寿を完うしたい、と心に決めている。それは女房孝行、子孝行のためでもある。それにしても、明日、彼岸に行ってもおかしくない。何事も運命である。

※この世では、ベストを尽すしかない。生生流転!
 終りに臨み、天上に召された同病の患者の御霊のご冥福を、お祈り申し上げる。合掌。

※一日おき通院の桎梏から、いつ解放されるのか?それは死しかない
 透析を初めてから20年半、命永らえて来られたのは、神仏のご加護に加えて、多くの人々のおかげでもある。
 また、お力を貸して下さった医療従事者のかたがたに厚く御礼申し上げる。
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東腎協30周年 あゆみ P78−92

最終更新日:2003年2月11日