最近の透析患者の傾向として、ごく身近な目先のことには関心 を示すが、過去の透析発展の過程には、あまり興味を示さない人が増えている。
今あえて新しく透析を始めた人に、私自身の体験を伝えたい。
30年前、すでに腎不全状態にあった自分が味わった絶望感を。
患者会設立の動機である透析機器がまだ不足していた時代があったことを。
透析をやっと開始でき、一晩で心身ともに生き返ったときの感動を。
その後次々に発生する透析合併症による苦闘とその対応を。
新しい治療法や薬剤が開発されるたびに、何年もの悩みが一瞬のうちに解決し、生き延びられるという実感を得てきた。
今日、当然のごとく透析を開始し、しかも被害にあったごとく病気をとらえ、苦しさだけを訴える患者が多い。しかし厳しい環境を体験した者には、ちょっとした改善が幸せと感じられるものである。
一方、透析を過大評価し、透析さえしていれば、自己管理や患者会活動などは関係ないことで、少々羽目をはずしても健康な人と変わらない精神力を持つことが一番だと信じて、無頓着に生きている人が増えている。
一見確立した医療に見える透析であるが、 精神論だけで解決できるほど安定した医療とは思えない。まだ自己管理を必要条件とする未完成の補助的医療である。
今の透析医療の技術と環境は、簡単に手に入れたものではなく、多くの関係者の努力、もちろん患者自身の活動もあって、その結果もたらされたものであり、またその道の途中であることも忘れてはならない。過去の歴史から病気と闘う知恵を身につけてもらいたい。
(高橋)
最終更新日:2001年3月18日
作成:S.Tokura