司 会 ジャーナリスト 松村満美子さん
パネラー
社会保険都南総合病院名誉院長 小出 桂三先生
三軒茶屋病院院長 大坪 公子先生
社・全国腎臓病協議会常務理事 小林 孟史さん
東腎協事務局次長 木村 妙子さん
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松村満美子さん |
東腎協は今年30周年を迎えました。
4月21日、記念の第30回総会で昔を今に伝えるパネルディスカッションを開催しました。
冒頭で、結成当時の写真をスクリーンに映し出すと、懐しさなどで会場からどよめきが起きました。
パネラーは当初から透析医療に尽力されてきた小出先生、大坪先生のお二人を迎えました。
また全腎協運動を続ける中で透析導入した常務理事の小林さん、今年透析30年の木村さんも参加しました。
司会は移植、透析にかかわってきた松村さんにお願いしました。
発言には各々の思いが込められています。
松村 皆様こんにちは。ご紹介いただきました松村でございます。私が腎とかかわりましたのがもう30年以上前で、中川成之輔先生に引き込まれたのがそもそもで、今日いらっしゃる長期透析の方たちとも長い長いおつき合いをさせていただいております。
簡単にパネラーの皆様を、ご紹介いたします。
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小出桂三先生 |
小出桂三先生は東大卒業後、国立王子病院の循環器科医長として、昭和45年からずっとやっていらっしゃいます。
その後、帝京大学の医学部付属市原病院の教授をなさり、その後病院長を経て、現在は都南総合病院の名誉院長先生でいらっしゃいます。
現在でも月曜から金曜まで患者さんの面倒を見ていらっしゃるということでございます。
小出先生、昔のお話もよろしくお願いいたします。
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大坪公子先生 |
大坪公子先生は東京女子医大を昭和40年にご卒業、その後東大の医局にもいらっしゃり、三軒茶屋クリニックを昭和45年に開設されました。
現在、医療法人社団の大坪会、厚生会いろいろな社団の代表をされています。
三軒茶屋の病院の院長先生をお続けになり、患者さんの面倒を見ていらっしゃいます。
大坪先生よろしくお願いいたします。
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小林孟史さん |
そして小林孟史さんは、もう皆さんおなじみだと思いますが、学校をお出になってから京王帝都に18年お勤めの後、昭和46年、全腎協結成のときからのメンバーでいらっしゃいます。現在は、社団法人全国腎臓病協議会の常務理事で、そして事務局長で常勤でやってらっしゃいます。
病気の方は、30歳のときに職場検診で蛋白尿が出ているのが見つかって、それからずっと保存期を経て、平成7年に血液透析を導入してらっしゃいます。
これまで、厚生省の公衆衛生審議会、成人病難病対策部会、腎不全対策専門委員会委員とか、いろいろ公職もこなしていらっしゃいます。
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木村妙子さん |
そして、そのお隣にいらっしゃる木村妙子さん。
木村さんは、小学校5年のときに風邪からネフローゼ症候群を発症されて、もう小学校のときに生死の境をさまようような経験もしてらっしゃって、透析導入が昭和47年。
三軒茶屋病院で、大坪先生のところで透析を導入していらっしゃいます。
そのときはまだ腹膜還流で、そのあと外シャントを13年キープなさって、その後は内シャントになっています。
木村さんが非常に立派だなと思うのは、社会復帰をしっかりなさって、患者会の仕事だけではなくていろいろなお仕事もやって現在に至っていらっしゃいます。
さて、それでは30年前、東腎協結成当時と、そして今とを皆様方にこもごもお話しいただきたいと思います。
木村さん、外シャント13年もたせてらっしゃった。大変でしたでしょう、外シャントってどんなのか知らない方も多いと思いますので、まず皆さんに説明してあげてくださいますか。
木村 先ほどスクリーンに映し出した画面でごらんになったと思うんですが、何しろ手首に2本管が入って、コネクターというので動脈側と静脈側がつながれてて、ふだんは包帯をしておりまして、お風呂へ入るのもサランラップを巻いて手袋をしてビニールテープでとめて、その片腕を上げて入って、それを13年間続けました。
出ますと自分で消毒をして、先生から教えていただいたとおりにアルコール綿でちゃんと拭いて汗を乾かしてから、また包帯を巻くという状態です。
ですから役員になってから、旅行で温泉なんかに行っても楽しみがもうほとんどなくて、内シャントになって針刺すのは痛いんですが、ジャパーンとお風呂に入れるのが本当にうれしくて、それが一番の喜びでした。普通2年とか1年で詰まってしまって内シャントに移るという状態なんですけれども、私の場合は内シャントと外シャントの両方あったので、ちょっと元気がなくて貧血もあったので、さっき社会復帰と褒めていただいたんですけども、10年以上も、もうただ透析をやって生きているだけという状態で、2年の寿命という考えもありましたので、将来計画など何もなくて過ごしていたような状態でした。外シャントは負担だったですけど、今は痛くても内シャントなので本当に普通の日常生活のときには、楽しくというか、楽に過ごさせていただいております。
松村 社会復帰なさったのも、内シャントになってからですか。
木村 そういうことですね。
松村 外シャントのころはそれどころではなかったのですね。外シャントというのはとにかく詰まりやすいと聞いていますが、先生、木村さんの13年って、すごいことではないんですか。
大坪 それは、木村さんが特別よくシャントの管理をなさったからですね。これは本当にえらいことなんです。幾ら褒めても褒め足りないぐらい、えらいことですね。詰まりやすくて3カ月ぐらいしかもたなかったとか、1年以内だという人がほとんどだったと思うんです
けれども、それをよく管理なさって、もたせてくださったと思います。これは、もしかしたら世界記録かもしれないと思いますよ。
松村 30年ぐらい前は、透析の方たちとお会いすると皆さん手首に白い包帯を巻いているのが透析をしている方の1つのトレードマークみたいな感じでした。それが内シャントができて、皆さん楽になったわけですよね。
小林さん、全腎協の結成の当時、今ほど透析の事情もよくないし、皆さん体の調子もよくない状態でいながら、炎天下、厚生省へ行っていらっしゃる姿を、思い出しますけれど、大変だったでしょう。
小林 実は厚生省から今の財務省ですか、大蔵省まで陳情にその予算つけてくれと、厚生省の方は透析の医療費と、人工腎臓を増設することについて、大体OKがとれていたんですね。
厚生省が要求しているとおりにぜひ予算をつけろということを主にして、その間行ったんですが。
たかだか、500メートルか600メートルぐらいの距離なんです。50人ぐらいで行きましたけれども。ヘマトクリットが14%、15%ぐらいの人たちなんです。今エリスロポエチン、皆さん使ってらっしゃるので、ほとんど想像もできないでしょうけれども、ちょっと歩くとすぐ休むというような状態で、大蔵省まで出かけて行ったというようなエピソードがあります。
そして医療費の更生医療の適用が実現したんですけどね。それを求めての陳情でした。それはまさに死にものぐるいの運動でして、事実、初期に活動をしたかなりの多くの方々、東腎協の方々も全腎協のメンバーも、かなりの方々がそれから3〜4年後に亡くなられております。
松村 大変なときでした。
小出先生、45年から病院で診てらっしゃって、最初のころは、まだ健康保険もきかないころですか。
健康保険はもうきいておりましたか。
小出 腎不全の患者さんを診察すること自体は健康保険は通ってたわけですけども、透析について点数がまだはっきりしてなかったんです。
松村 ということは、とにかく今ですと、1,000万近いお金が自前だった時期があったのですよね。
小出 でも、間もなくそんなに期間がなく健康保険で透析もできるようになりました。
松村 昭和47年ぐらいから認められましたよね。
小出 私どもも始めて1年半ぐらい。それなりに国立病院ですから、厚生省に陳情大分いたしました。
松村 病院の研究材料としての患者さんというようなことで辛うじて導入していただいた方も結構いらっしゃいまして、私が書いた「腎不全を生きて」という本の中の田島熊男さんは、信楽園病院で平沢由平先生のところで導入なさったのですが、日本で最初の透析導入者だったんです。
この方1991年まで生きていらっしゃって、25年で最長記録だったんですけれども、この方が導入したときというのは、病院で、要するに試験的にやるから導入ができたという方です。
中村勝男さんという方は、田地、田畑を売って、長野の善光寺さんの前のおそば屋さんの御主人で、お金持ちだったので、何とか更生医療になる前に導入して、10何カ所シャントを作った方なんですが、更生医療になって助かったと言ってましたね。
そういう時代があり、それから今度は更生医療になるまで、健康保険は適用になっても家族は50%負担でしたから、家族の場合は、家庭の主婦はお金が払えなくてだめというようなこともありました。
お金だけの問題ではなくて、透析器械自体が、少なかったんですよね。600台とか、700台しか日本にはありませんでした。
その当時の患者さんが大体7,000人とか、1万人いらっしゃいました。
それで、亡くなった中川先生がよく言ってらしたんですけど、患者さんを「この人は社会的にいい仕事をしているから透析を導入しよう」とか、「この人は子どももいない女性だから導入するのをやめよう」とか「そういう人間の選別を、僕たちは医者として、すごくつらい思いをしながら選別をした時期があったんだよ」というのを聞いたことがございますが、大坪先生、その当時のころのご記憶はいかがですか。
大坪 その当時は施設が少なかったので、私どものところにも九州からでも北海道からでも、全国各地からお見えになりました。それで、患者さんと医療従事者が、とにかく一体となって治療するという時代でした。
1回の透析も6時間で週3回ぐらいやるということですから、患者さんとのつきあいが家族よりも深くなるというようなことで、初期の患者さんたちは、ほんとに医療従事者が家族と同じというふうな感覚で治療をやっていたと思います。
その各地の人たちは、やはり入院という形でないと透析ができないという時代でした。しかも非常に急変することが多く、心不全ということがとても多かったものですから、夜中に透析しないと命がもたないとか、そういうことがありまして、楽な治療ではなかったですね。
皆さんほんとに苦労しながら透析をするというような、そんな初めのころの印象だと思いますけど。
松村 小出先生、初めのころの大変だった思い出、いろいろおありだと思います。
小出 皆さんも現在の透析食にはまだ十分ご満足してないかもしれませんが、私たちは昭和45年の12月から透析の準備をして、翌年の2月の25日から透析を始めたわけですが、当時の透析食の内訳を見ますと、私ども改めて見てびっくりしましたが、食塩ゼログラムです。6カ月ぐらいそういう食事でした。それからだんだんと塩分をふやしたということです。
それから高カリウム血症が非常に怖いわけですけれども、その当時の食品成分表にはカリウムの成分含有量などは全く載っておりませんでした。
そこで、当時の栄養士さんがわざわざ東京農大までサンプルを持っていきまして、分析していただいたり、外国の文献を参考にしたり、また、筑波大学で分析していただいて、塩分や、カリウムなどの量を把握したということです。
しかし3〜4年後には、分析表が作成されまして、それを用いて透析患者さん、あるいはほかの患者さんの食事をつくるのにも役立てたということを伺っております。
それから最初のころの透析食は、エネルギー(カロリー)を十分にとらなきゃいけないということで、油でカロリーをということなものですから、そのお食事を運んで来られると、病棟自体に、ぷんと油の匂いがしてしまうくらい油の量が多くて、患者さんは、ただでも食欲がないのに、そういうような状況ですと、十分なお食事をとっていただけないこともありました。
そこら辺のところが非常に試行錯誤して、だんだんと栄養士さんも勉強をしてくださって、業者の方とも特殊食品などをいろいろテストしていただいたりして改善されました。
それから水分制限のことも大分苦労されました。電子レンジを使ったりすれば少しは少なくなるかなあとか、いろいろ苦労されたようです。透析患者の方のベッドサイドに行って、きょうの食事はどうですかとか、いろいろ伺っていったわけです。
そして「食べなきゃだめですよ」とか「食べてください、食べないとなかなか病気がよくなりませんよ」という
ようなことを話しすると、患者さんの中には泣き出してしまった方もおられる。「そんな無理なことを栄養士さんが言ったって食べられないじゃないの」、というようなこともあったようです。
初期の段階ではいろいろと栄養士さんも苦労を重ねても、患者さんにはなかなか受け入れられてもらえないというような実情もありましたけど、だんだんそういうことを積み重ねて現在の透析食になってきたんだと思っております。
松村 大坪先生、そのころ私も、何か油ぎたぎたのお食事を食べさせられるというのを患者さんから聞いたことがありますが、塩分ゼロの油ぎたぎた、食べられたものじゃないですよね。
大坪 そうですね、やはり食事の問題は皆さん苦労なさいましたね、随分と。
特にやはり初期のころは除水性能がすごく悪くて、1回に500mlとか、多くても1,000ml、1キロぐらいしか引けないんですよ。
ですから本当に水分管理がよくできる人しか、生き残ることができなかったと思うんですね。
ちょっと食べ過ぎたら、食べ過ぎるということはとにかく塩分を取り過ぎると水を取り過ぎるということになりますから、心臓に水がたまり、夜間、呼吸困難で心不全になるんですね。
そういうことがたびたびありまして、食事管理というのはやはり患者さんの指導の中でとても大きい部分だったんですね。一番私が感じるのは、水分管理が難しかったように思いますね。
松村 そうですね。木村さん、実際にそのころからやってらして、やはり油ぎたぎた、塩分ゼロ、水を極端に減らせという時代を生き抜いていらしてるんですけど。
木村 私はネフローゼが慢性腎炎に移行してからが長くて、2年半以上内科の治療を受けましたので、その慢性腎不全の食事療法を随分我慢して、無塩食というかほんとに低塩食と高カロリー、低蛋白食を経験しましたので、透析になってからは少し楽かなという感じを受けました。
ほんとにご飯の量まで制限されるような状態で、尿も出てなかったのでほとんど水分制限も慢性腎炎の時代から始まっておりましたので。透析に入ると、くだものも食べられないし、お薬を飲むのに牛乳の1本を3回に分けて、それでお薬を飲むと。そのころはリンのことがまだ先生方の方でも制限をしていなくて、「小魚、乳製品をたくさん食べなさい」というようなご指導でしたので、牛乳は飲めたんですけれども、そういうようなことですごくつらかったですが、蛋白量は慢性腎炎のときよりも少し楽になったかなという感じでおりました。
高カロリーの粉あめと、油分を多くとることについては、やはりちょっと自分自身でも苦しみましたけども、今は随分楽になっております。
松村 そうですか。木村さんの場合は、お子さんのときに発症してらっしゃって、子供のときからずっと塩分のない食事をやったわけですよね。
そういうのは今から考えると、人格形成にも関係があるのかななんて木村さん言ってらっしゃったけど、どうなんですか、その辺。
木村 そうですね、自己抑制がすごく強くなっちゃったというか、石橋をたたいて渡るということわざがありますが、私の場合たたいても渡らないというか、そんな感じの性格があって、変なところでずうずうしくて変なところで遠慮っぽいということをよく言われますけど、ちょっとそういうような点があるかとも思います。
松村 小林さん、ご自身は7年前に透析の導入でらっしゃいますけど、ずっとご自分でコントロールしながら全腎協の仕事を続けてらっしゃって、周りで透析している人たちの、今と30年、20年前の方たちの健康状態とをつぶさに見てきてらっしゃるわけですよね。
やはり、すごくよくなってるなという感じ持ってらっしゃいます?
小林 私自身は今お話のように透析導入はごくごく最近の話ですから、自身として体験してきているわけではないですけど、私の行ってる病院が昭和45年の暮れ、クリスマスのあたりで透析室をオープンしたんですね。
ですから、全腎協ができる直前ですけれども、そのころにちょうど発症してちょっと後で、入院していたもんですから、そのときに透析の患者さんの姿をよく見かけたんですよ、院内で。
そのときに病室から透析室に行かれる患者さんが、自分で歩いて行かれる患者さんは特にそうなんですが、タオルとティッシュペーパーと、それからもう1つ洗面おけというんですか、金だらいのような物を必ず持って皆さん透析室へ行かれる。そのタオルやティッシュはわかるんですけど、おけは何、というふうに聞いたら、ほとんどの患者さんが不均衡症候群というか、そういう状態が透析中に出て当たり前のように吐くので、そのために金だらいが必ず必要だと。
透析患者の「三種の神器」だよというようなことで冗談めかして言っていましたけど。
それを私は全腎協の仕事にかかわるようになってからほかの病院の患者さんたちにもいろいろ聞くと、やはり当時の透析事情ではみんなそんな状態だったようですね。
それが本当に患者さんの状態が大分よくなってきた。
亡くなる人も続いていますけど、全腎協結成時からこの30年の間に、本当に飛躍的に透析技術の進歩があったと思います。
それともう1つ、慢性腎炎を長く体験してきた者の立場から若干触れさせていただければ、透析導入前の段階での管理というのも随分その当時と違ってきたと思います。
「あれ食べちゃだめ、これ食べちゃだめ、これを食べなさい」というふうに言われたのが、実はちょっと後になったら随分違う話だったんですね。それは何もうちの病院の先生、主治医だけじゃなくてよそでもそういう話が随分あったらしくて、まだ慢性腎炎に対する食事療法の方針がぴたっと決まっていなかったんじゃないでしょうか。
保存期の治療の方法というのも変化してきたというふうに言えると思うんですね。
松村 20数年前長期透析の患者さんの集いというのを腎研究会の雑誌でやったんですが、何年ぐらいを指して長期透析というとお思いになりますか。
小出先生はご記憶にあると思うんですけど、皆さん10年とかそれぐらいとお思いになるでしょ、3年です。3年が長期透析だったんです。
そういう患者さんに集まっていただいて、それくらい透析は導入しても、亡くなっていく方も多かった治療法だったわけです。
そういう中で治療法もいろいろ試行錯誤しながら、カリウムのことなんていうのはそんなに前のことじゃないですよね。カリウムの制限が出てきたり、食べる物についても昔はこれはだめと言われてたのが今は違っているなんていうものがいっぱいありますよね。
大坪 透析治療をしながら、何が一番患者さんにとっていいかというのを試行錯誤しながら勉強させてもらっていたということが、とてもありますね。
それで三輪修さんという私どもの初期の患者さんなんですけど、27年透析をなさって亡くなられたんですが、そのとき追悼して短歌をつくりました。
それをちょっと披露させていただきますと、
「君とわれ 一体となり挑み来し 初期の透析不安多かり」。
とても患者さんも不安だけど、医療従事者だってそんなに自信を持って透析をしているわけじゃないんですね。
「透析の歴史のままに生き抜きてチャレンジ精神我を励ます」。
患者さんが、先生、こういう方法やってみてもいいですよといろいろ私に教えてくれる、そういうことがすごくあるんですよね。
それで透析の歴史ということは、やはり患者さんがチャレンジしてきたんです。本当に開拓者なんですね。30年生きた人は皆さん本当に透析医療のパイオニア、開拓者だと思います。それから亡くなられたときに感じたことなんですけど、
「君と我 透析医療のパイオニア 君はよく耐えわれに教えし」。
患者さんに教わってきた、三輪さん本当にありがとうというふうに私は追悼の短歌をつくったんですけど。
今30年やってる人は、合併症と戦いながら30年生きてくださっている、本当に立派な人だと思います。立派な人間性がなければ生きられなかったんです。
そこを思うと、本当に透析の長期の生存というのがいかに皆様の努力、そして医療従事者と一体となってやってきたチャレンジ精神の賜物ではないかと感じます。
松村 小出先生、やはり長く頑張って生き抜いていらっしゃる方たち、本当に私も頭の下がる思いなんですけど、先生もいろいろ試行錯誤しながら患者さんとともに歩んできたというお感じでいらっしゃいますか。
小出 やはり今、大坪先生もおっしゃりましたけど、生きていかなければならないということがある方は、我慢してでも厳しい、つらい透析の生活をお受けになったんだと思います。
これに対してとかくちょっとまずいことをやってしまう患者は、私どもの経験では独身の男性の方が多く、透析食では我慢できなくて、入院している患者さんでもオーバーを着て外へ食べに行っちゃうというようなことをして、たまたま玄関で看護婦さんやドクターに見つかったりする方もありました。
しかし、私どもの病院の入院患者さんの透析食の基準というのも、いろいろと情報を集めましてどんどんと変えてきました。変えたということは患者さんにとっては大変いい方向、患者さんの受け入れやすい方向に変えてまいりました。しかも透析食を最初のころは1つしか基準をつくらなかったのが、私どもの病院の栄養士の方たちは非常に熱心に努力してくださって、入院患者さんの透析患者さんの食事が3種類ぐらいになりますと、大分おさまってきて、透析食の厳しさというかつらさというのは、少しずつ減ってきたのではないかと思っております。
パネラーの皆さん |
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松村 小出先生、現在日本ではもう21万人を超す方たちが血液透析をして、CAPDという治療法もあり移植という方法もありながら、日本では極端に血液透析が多い現状ですけど、ここから先、現状分析と将来展望みたいなことを、お話しいただけませんでしょうか。
小出 本質的には、やはり日本でも腎移植が、もっともっと、多く実行できるようになることが一番よろしいことではないかと思います。
腎移植を実際に受けられるまでは透析でもって何とか頑張っていただいて、よい体調を維持し続けていただきたいと思います。
また、患者会などでお互いに励まし合って、体調のなかなか守れない方、自己管理がなかなか難しい方もどうぞ引っ張っていただきたいというふうにお願いしたいと思います。
松村 大坪先生、今の日本の現状、そして今後のこと、どのようにお考えでいらっしゃいますか。
大坪 そうですね、やはり透析医療というのは、医療の中でもとても成功している治療だと思います。
30年生きられるということは大変喜ばしいことだと思います。
ただ透析導入の平均年齢が今60才ぐらいになっていますから、もう透析は老人の医療ということになってきているんです。そこがやはり大きな問題点だと思います。
しかも糖尿の人が非常に多く、1番になっていますから。そして透析の時間が保険点数が今回変わりまして、私ども本当に残念に思います。医学的には十分透析するということの方が本当はいいんだということは言われているんです。
ところが、患者さんは少しでも早く終わりたいから、だんだんだんだん時間が短くなって、4時間するのが精一杯という感じなんですけど、でもさらに何時間やっても点数が同じとなると、患者さんの要求が強いと、時間がだんだん短くなるんじゃないかという心配が、すごくしているんです。
ですから皆さんは十分透析する、私は5時間やりたいから十分やってくださいとか、そういうふうに頼んだ方がいいんじゃないかと思うんです。
大変ですけれども、やはり十分に透析するということは、非常に大事な一番基本的に大事なことだと思っていますから、そのこともすごく心配しているんです。
それからあとは、もう長期透析になったらそれでだんだん体力が低下してくるといいますか、透析アミロイドーシスとか骨関節障害が非常に出ますから、どうしても私は透析の人の介護の問題が今後は大きいと思います。
介護を受けながら透析をしないといけない方が、我々病院でも大変ふえていますし、老人の透析ということになれば介護は避けられないです。
ですから、介護と医療の組み合わせということを十分に今後考えて、お年寄りも安心して長期透析ができるようになっていけばいいんじゃないかというふうに思います。
それからもちろん、若い人はやはり腎移植に進むべきだと思います。常に移植のことを考えて、治療を考えていった方がいいんじゃないかと思います。
それから、CAPDが日本で普及していないということも非常に残念に思います。透析での成績が日本は大変いいものですから、どうしても透析の方が実績がこれだけあると、そちらの方が安心かなという思いがしてしまうのではないかという気もしますけれども。もう少し、若い人は移植とかCAPDの方を選択する道も十分あると思います。
松村 小林さん、患者活動をしてらっしゃって、昔は仕事をしながら透析をしている人の解雇の問題などで、ずいぶん全腎協は頑張ってきましたよね。最近、そういう問題は少なくなってきたんですか。
小林 事実として、おっしゃるとおりなんです。相談担当者とよく話すんです。
昔は就職の相談、あるいは解雇されたという相談がよくあったと。だけど最近どうなのと聞くと、あまりないというんです。
ここ5年ぐらいそういう傾向があって、でも世間様ではリストラだ何だという話がこれほど飛びかっているのに、いや全くないわけではないですけれども、かつてのように透析患者の就労の問題が大きく全腎協の課題とされるようなケースというのが、ほんとに少ない。
これはなぜだろうと考えるんですが、1つはそうですね、糖尿病性腎症の患者さんがふえてきてることや、高齢の患者さん、透析導入のときにはすでに定年に近くになっていらっしゃる、あるいは定年後というようなことがあるかもしれない。
ですから30代40代の透析の患者さんが肩たたきされるというケースが少なくなってきているのか、そういう患者さんが余りいない、いないはずはないのですが、比率は昔に比べればずっと少なくなってきています。
ですから、正直言って全腎協の中心課題ではなくなってきているというふうに、この場で言うと怒られるかもしれません、おしかりいただくかもしれませんけれども、事実として事務局に毎日いて感じるんです。
ちょっとここで話変わるんですが、前のことに戻って、先ほど来のお話の中に出ていなかった話で1つしておきたいのは、全腎協の運動などで47年の10月1日から更生医療の適用がされまして、医療保険と更生医療によって、基本的に患者負担なしに透析ができるようになりました。
それは全国の仲間、いろんな様々な先生方も含めた運動の成果だったんですが、東京都は昭和47年4月1日から、透析の患者さんの医療費を公費負担するようになったんです。
実はその10月1日から、国制度として更生医療が適用されたものですから、実際には半年ぐらいしか使われなかった。
30年前の話を聞く会員
この東京都独自の、日本で一番最初に公費負担が実現したのは東京都です。
そのときには、まだ患者さん少なかったからあまり使ってる人がいなかったかもしれないですが、やはりそういう点では、東腎協の歴史の中で非常に大きな成果として掲げていいのではないかと思うんです。
皆さん方の先輩がそういう運動もする中で、やはり美濃部都政下だったからということもあったでしょうか、国に先駆けて公費負担を実現したというようなこともありましたので、やはり確信をもって運動され、全国の牽引者として、東腎協ますます頑張っていただきたいと思います。
松村 木村さんは東腎協事務局にいらっしゃっていかがですか。
木村 今までの30年間は、私たち古い患者が身体的ハンディをのりこえ、経済的ハンディをなくすため行政や市民の理解を得て、制度を充実させてきましたが、これからは透析一、二年の会員さんが、この厳しい状況の中で昔に戻ってしまうような時間制の廃止とか食事の有料化とかある中で、運動をバトンタッチしていただきたいと思います。
松村 社会復帰ですよね。木村さんなんか本当よくやってらっしゃると思います。
私も臓器移植ネットワークの中央評価委員もずっと続けてるんですけども、さっき大坪先生から移植がすごく少ないというお話が出ましたが、逆に日本で脳死からの臓器移植が可能になったのが、1997年、法律ができてからですね。
それまで年間大体500例から800例ぐらいの、亡くなった方からの腎移植があったのが、昨年の場合だと150例ぐらいしかないんです。
これは、逆に脳死からの移植ができるという法律ができたことによって腎移植が減ってしまった、という現実がございます。
ただ腎臓に関しては、脳死でなくても心臓が停止してからでも摘出して移植もできますし、心臓、肝臓、肺は意思表示カードを持っていて自分の意思がなければ提供できませんけれども、腎臓に関してはご遺族の意思で2人の方が透析から開放されるわけですから、これからもっともっとPRしていかなければいけないと思ってます。
またCAPDの世界的なレベルは全透析の20%ぐらいなんですけど、日本の場合は5%以下という、今は9,000人ぐらいしかいない。ですから自分できちんと自己管理のできる人はCAPDをとりあえず導入して、それから少し腹膜がご機嫌が悪くなったらHDに移行するとか、3年ぐらいCAPDしたらまたHDをやって腹膜を休ませて、またCAPDをやるとか、行ったり来たりすればいいし、それからチャンスがあれば腎臓の移植をすればいいと思います。
そして私たちは第三者的に、保存期の患者さんに情報を提供するというコンセプトで、「腎臓サポート協会」をつくったんです。
今後全腎協などとリンクしながら、患者さんたちによりよい生活を送っていただくための方策を、私も進めていきたいと思ってやっております。
それから今後の問題では、やはり糖尿病からの導入が非常に増えてきています。
昔は、糖尿病からの導入というと1年もたないとか3年もたないとかと言われたんですが、今糖尿病からの導入でも10年元気な方たくさんいらっしゃいます。
逆にまた、糖尿病からの導入の方は高齢の方が増えていますから、これから介護が必要な透析のケースも出てくるわけですね。
実はきのう、茨城県にある、特養やケアハウスを併設している病院へ行ってきたんですけど、そこは透析施設も持ってまして、そこのケアハウスにいる方の20人ぐらいがその建物のすぐそばの透析室へ通っているんです。
そういう施設もこれからもっともっと増やしていかなければいけないし、そのときの生活がいわゆる大部屋ではなくて、患者さんのQOLの高い、ちゃんと個室化されてミニキッチンぐらいついてるような、住空間のしっかりしたそういう施設もこれからつくっていって、介護と透析という問題もクリアしていかなければいけないと思います。
それが一番つくりにくいのが東京なんですね。
畑がいっぱいあって土地がたくさんあるところでは、ケアハウスと特養と透析室と併設して作れるんですけど、東京は土地が何せ高いから難しいですね。
患者会の活動としても、これから介護と透析の問題というのも取り組んでいかなければいけないし、それから仕事をしている方たちの、さっき小林さんの方から、首切りとか何かは大分減ってきてはいるというお話ではございましたけれども、大きな健康保険組合でも3人か4人の透析患者がいると途端に健保が赤字になるというので、できることならやめてほしいんだけどというようなこともまだまだたくさんございます。
問題山積だと思いますが、皆さんこれからも東腎協が40年50年と歴史を積みかさねていく間にいろいろ問題点は変化していくかもしれませんが、その時々で大切な問題をクリアしていって、よりQOLの高い腎不全生活を送れるように、今後とも頑張っていただきたいと思います。
木村さんも、これからますます40年50年東腎協のために頑張っていただきたいと思います。
それから今日おいでの30年以上の方たち、どうぞ記録を延ばしてくださいね。
もう私がよぼよぼになっても、お元気でいてくださることを祈念いたしまして、30年前と今、そしてこれからというこのシンポを終わらせていただきたいと思います。
どうも長時間ありがとうございました。(拍手)
どうも先生方もありがとうございました。どうぞ皆さん、頑張ってください。
人は変っても運動は継続します。この記事がその一助になれば幸いです。(編集部)
東腎協 2002年 7月 25日 No 144
最終更新日時:2002年8月29日
作成者:sasaki