豊生会日帰りバス旅行
豊生会 中野 功一
私達、豊島中央病院豊生会は、九月三日(日)に川治温泉へ、親睦と日頃の疲れを癒しに温泉と会食とカラオケを楽しむ日帰り旅行へ行って来ました。当日は晴天に恵まれ、院長先生、松村先生等病院関係者が八名、患者会はご夫婦が三組と付添いを含め四〇名、合計四八名で、大型バス一台で行ってきました。
豊島中央病院入口の明治通りを七時四五分に出発、鹿浜から東北道に入りました。車内では、カラオケ等で賑やかに騒ぎ楽しんでいる内に、宇都宮、鬼怒川を経て、龍王峡に着きました。売店のベンチで休む人、虹見の滝を見に涼風の山道を何段も降り、帰りは登りに汗をかく元気な人、膝がガクガクになってしまった方もいました。ここから二〇分位の乗車で一一時二〇分頃に待望の宿屋伝七に着きました。すぐに全員の集合写真を撮りました。
開宴までの間、宴会場の隣の控室で休息する人、ひと風呂浴びに、檜風呂、露天風呂、サウナ風呂と快い汗をかく人、宴会までの時間をもて遊ぶ方もいました。
宴会は一二時三〇分から二時間で、カラオケを主に親睦をはかりました。また、この度結婚された山崎さんご夫妻を、会の規約に基づき金一封のお祝いを差し上げ、参加者一同で祝福を申し上げました。新婦さんより愛を込めて「だんな様」を聞かせて頂きました。院長先生の歌に続き、透析暦二四年の渡辺勝氏の「涙をふいて」をトリにカラオケは打ち切りましたが、時間が足りない程の盛り上がりでした。その後、歌舞伎の「与話浮名横櫛」の一幕をお富=松村先生、与三郎=岩崎文章氏の配役で演じられました。あらずしは、土地の親分、赤間の妾お富と深い恋仲になったことがバレた与三郎は、親分に三四ヶ所の傷をつけられる。お富は海へ投身するが、危ないところを救われる。それから三年後、思いがけずお富と再会した与三郎は頬かむり取って、「いやさお富」と対面し、「しがねえ恋の情が仇…」と名せりふが続くのでした。帰りは、お菓子工場と漬物工場に立ち寄り、東北道から外環美女木を経て首都高速に入り、車窓からは夕陽が雲をオレンジ色に染め、遠くには富士山を見ることも出来ました。無事に病院前に予定時刻通りに着き、楽しい雰囲気で一日を過ごす事が出来ました。
署名で学んだこと
個人会員 山田 二九夫
この度の署名運動は色々学ばせていただく機会でありました。これまでは、自分の知人や友人に署名をお願いしていたのですが、今回は患者さんおひとりおひとりに現状をお話する絶好の機会ととらえ、透析日以外でも患者さんのお宅に伺い、医療(透析)の現状をお話し、これまでの患者会・東腎協の役割等を説明して、患者さんは勿論のことご家族の方々にも署名していただきました。
やはり、現在の自分の環境を考えた場合、先輩諸氏のたゆまぬご努力によっての現在を思わずに要られませんでした。今後も患者会の発展と皆さまのご健康を祈りつつペンを置きます。
俳句
個人会員 溝口 幸夫
透析の あとの氷菓 旨さかな「青年部交流会“透析食料理講習会”に参加して」
天神橋クリニック腎友会 会員 米山 浩代
私は、透析導入となり一年が過ぎましたが、わからないことばかりで不安な毎日でした。脊椎管狭窄症手術を克服して
東腎協 副会長 原 三代吉
今年で透析二一年を迎えますが、会員の皆様のお役に立てればとがんばっております。私は少年時代から野球が好きで、社会人になっても野球に関ることが多く、教え子の中にはプロ野球で活躍している選手もおります。透析導入後も一〇年ほど、町内会のチームの監督としてグランドに立ち、爽やかな汗を流した懐かしい思い出があります。
透析導入は昭和五四年一一月でした。当時の透析医療は現在と異なり、機械の性能も効率も悪く、長期透析になるに連れて、アミロイドの沈着等の問題が生じ、手根管症候群、肩関節痛、足腰の痛みを訴える患者が多かったのです。 私も、例外ではなく、透析一五年を迎える頃から、腰の痛み、左膝の痺れと激痛に悩まされはじめました。地下鉄東西線の葛西駅から高田馬場にある医療施設までの通院が困難で、車中座ることができないと大変困るので、ケア・デザイン・プラザのステッキチェア(杖が折り畳み式椅子になるもの)を利用しての通院には苦労いたしました。 以前は数百メートル歩いて休むという状態でしたが、月日が経つと、立ち止まる間隔が短くなり、通院はもとより、東腎協の活動にも影響を及ぼすようになりました。深刻に受け止め、日本赤十字社医療センター整形外科の主治医の先生に相談いたしまして、MRI検査を受けました結果、病名は脊椎管狭窄症と診断されました。原因はアミロイド沈着と年齢的な問題もあり、神経が圧迫されての痛みであることが分かりました。
また、新たに、脊椎のすべり(ずれ)が三ミリほどあることも分かりました。このままでは、一年後は車椅子の生活疑い無しと告知され、一瞬、目の前が真っ暗になり、絶望感に陥りました。その夜妻子を集めて話し合いをいたしました。 今、手術をすれば治ると言った先生の言葉を信じて、手術を受けることを決断いたしまして、八月二三日に入院、検査検査の日が続き、九月六日に手術が行われました。術後三日目で、歩くなど、スタッフならびに同室の患者の皆さんもびっくりしておられました。野球をやっていたおかげで、骨が人より丈夫だったことが幸いしたようです。 手術後二〇日で、退院することができました。現在は経過も良く、東腎協の活動にも参加することができ、家族ともども喜んでおります。今回の手術にいたるまでは、心配と不安が交錯して、いろいろありましたが、最終的には勇気ある決断ではなかったかと思います。
入院生活を通じて感じたことは、私たち障害者は、先生はじめ、スタッフの方々に励まされ、そして家族の愛にも守られていることです。感謝いたします。最後に私と同じ症状でお悩みの方がおられましたら、医学は日新月歩であり、手術の成功率も七〇パーセントといわれております。なにごとも、前向きの姿勢で、成功を信じて、チャレンジしてみては、いかがでしょうか。最後は勇気と決断あるのみです。
最終更新日:平成13年7月15日
作成:Tokura