リレーエッセイ_1

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リレーエッセイ_1

《困ったときの東腎協!?》

下島正資(東腎協元常任幹事)

下島正資氏の写真

「人工透析を開始しましょう」と主治医から通告され、ついに来たかと心に感じながらも、これからの生活に対しての不安はどうしようもなく、何かに頼りたい気持ちは誰にでも起こり得ますが、私も同じように不安の毎日でした。  私が透析を導入したのは平成二年10月13日金曜日晴。9時30分東京女子医大病院東病棟5階に入院、看護婦に呼ばれ4階へ降り、酢酸臭が立ちこめ、50cm幅に並べられたベッドと透析機はまるで近未来の映画の一シーンの様に思え、透析室の看護婦に指示された入口から右方面、奥から3列目中央よりの透析用ベッドに横たわりました。
 植物人間のような機械に繋がれた人生なんて絶対嫌だと思って、CAPDをと望んでいたのだが腹膜炎の恐さに踏ん切りがつかずに血液透析を選び、まるでこれから戦場に出征する兵士のように自分の運命を左右する神を恨みました。
 もしも透析が自分に合わず、仕事が出来なくて今後どうやって家族を養っていくか、幼児を抱えた妻にどう願うか、色んな不安を懐きながら初めての3時間の透析を終わらせました。
 枕元に配られた女子医大名物、おにぎり2個と鶏の空揚げ弁当は不安で食べる勇気はありませんでした。 

 私が東腎協へ加入したのは昭和59年に都立豊島病院から女子医大に転院した時でした。
 
 当時最高に輝いていた太田先生に診断してもらい、もし治療が不可能な場合には諦めようと考えて居りました。入院中情報が欲しくて、中央病棟一階のソーシャル・ワーカー室に何度も足を運び保険、年金、福祉等の必要な情報を聴き、情報の一つが東腎協でした。患者組織なら自分に都合の良い情報が在るに違いないと考え、入会申込を行いましたが、入会しても講演会・ビラ配りなどやる気は無く、ネフローゼ症候群でしたので、透析までの時間はあり、その間に免れる可能性もあると内心祈っていました。 

 ここから先は前にこの会報に載せていただいた通り、病院長の水増し保険請求による保険医取り消し処分で患者全員が2週間程で転院を余儀なくされ、病院職員と共に院長側と団交中、先方が弁護士を立てたので対抗手段が必要となり、「そうだ、東腎協に頼ろう!」と困った時の神ならぬ、東腎協を利用しようと考えたのでした。  
 東腎協事務所に訪れた日は上手い具合に役員が居合わせ、事情を説明をしましたが、もう少し早く連絡してくれたらとか、個人会員より、患者会が優先だとかの話になり、「こんな時の東腎協じゃないのか。」と詰め寄り、一対他の議論に発展してしまいました。最後には色々と手を尽くしてくれましたが、このきっかけで自分が願う東腎協に変えたいと考え、患者会作りや活動に参加するようになりました。
 
 今考えると東腎協を利用しようとした自分が逆に役員・幹事の熱心な活動に乗せられ、ようやく患者活動の原点を見つけられたと思う今日このごろです。
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最終更新日:平成13年7月28日
作成:Tokura