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リレーエッセイ125

腎臓病とのつきあい

納島 慶吉 新小岩クリニック友の会 東腎協常任幹事
私と腎臓病とのつきあいは昭和39年、小学校一年生の秋より始まりました。その年の10月のある日近くの公園で遊んでいた私は、何かのはずみで激しく転んでしまい内出血を起こしてしまったのです。数日後、近くの病院で紫斑病と診断されて、千代田区の九段坂病院に入院しました。 内出血の状態がひどくて医師からは、「助かるかどうかはやってみなければわからない」と言われたそうです。しかし生命力があったのでしょう。一日一日と点滴を続けて行くうちに、どうやら落ち着いてきたのでした。しかし血尿が続いたあとの後遺症として、尿蛋白がおりはじめ腎臓病となったのです。ですから私は紫斑性腎炎ということになってしまったわけです。 元気になりだした頃から病院の中で少しづつ勉強を始めました。
同じ年頃の仲間が六人も居たので、皆で教えあってくれました。それでも学校に行くこともできないので、千葉県にある病院と併設されている養護学校への転院が決まったのです。昭和 42年より44年まで約三年間、養護学校に通いながら勉強が出来るようになりました。当時の四街道は空気も良くて環境は最高、みるみるうちに普通の子供と変わらない程、快復しました。
子供の頃の記憶は鮮明に覚えているもので、毎日の楽しみはおやつの時間、日記帳を見ると食べ物のことばかり、腎臓食はやはり、うすあじで普通の子供達(主に肺結核やぜんそく)が、カレーライスを食べている時など横目でうらやましく思ったものでした。その後、普通の小学校に転入して中学、高校と無事通うことができました。
働き出しても外来に行くと血圧が少し高いと言われる程度でいましたが、けっこう無理がたたったせいか、昭和60年の暮に透析の宣告をうけました。
初めはショックでしたが二年三年と慣れて、行くうちに、体調も良くなって、元気になりました。食事療法も入院中などとは比べものにならない程ゆるやかですし、これは裏がえせば制限していないことですが………。
とにかくかれこれ33年近く腎臓病とつきあってきましたが、今の状態が一番いいと思います。
 
患者会には、透析をするようになってからすぐ加入しました。幸い私達の患者会、新小岩クリニック友の会は先輩方の努力で会もしっかりしていたので、参加して行くうちに、なんとそのままずっと役員を続けている状態です。
東腎協の常任幹事は三年目になりますが、もっと勉強が必要と痛感しています。そして自分ができるうちは精一杯やって行きたいと思います。
東腎協  1998年10月25日 No.125
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最終更新日時:2001年4月15日
確認:K.Atari