私の生まれ故郷は、島崎藤村の「千曲川旅情の詩」の舞台となった小諸市であります。小諸は標高千メートル近くある高原で、夏は涼しく、都会の蒸し暑さを考えると別天地の感があります。
小学校六年の時、文部省と朝日新聞共催で行っていた「健康優良児」に選ばれ、表彰されたことがありました。ですから、透析を始めるまで、健康には自信を持っておりました。
中学は旧制上田中学で、毎朝早起きして、小諸から上田まで汽車で通学しました。
今でも思い出すのが中学の入学試験です。体力テストでは、模擬手榴弾の遠投をやりましたが、その時の教官は陸軍中尉殿でした。算数の試験は面接で、米軍のB29爆撃機はサイパンから東京まで何時間かかるか?等と聞かれたものでした。
その後、終戦となり、新制高校(上田高校)へ移行となりました。戦争中は、軍事訓練と勤労奉仕ばかりで、ロクに勉強する時間はありませんでした。勤労奉仕は、軍隊が本土決戦に備えて信州へ疎開してくる軍需物資(武器、弾薬、燃料等)を山中に埋める作業や、農家の収穫の手伝い等でした。
大学は、東京の大学へ行きましたが、これも大学の夜警や清掃、家庭教師と言ったアルバイトばかりで、空腹をしのぐのがやっとという状態でした。 昭和30年頃の学卒の就職率は60%台で、卒業式にまだ就職できない学生が多勢おりました。私は何とか、東証一部上場会社に入社出来てうれしかったのを覚えています。
入社後の配属は人事部で、当時幅をきかせていた労働組合と、労働条件の改定や賃金の交渉をしました。交渉は徹夜が当たり前で、ストライキも頻発しておりました。それが、昭和四八年のオイルショクを機に景気も悪くなり、労働組合の活動もだいぶおとなしくなりました。
私はその頃から、総務担当に変わりまして、株主総会や倒産会社等の債権回収、社員の交通死亡事故の処理等を、文字通り身体を張って対応致しました。交渉相手がその筋のコワモテのお兄さん達に代わった訳です。何件かは裁判となり、私も証人として出廷し、長時間の尋問を受けました。このような緊張の続く、刺激の強い仕事を40年も担当していますと、さすがの健康優良児もボロボロとなり、三年前から透析生活に入ることになりました。
透析を始めるに当たって、会社役員や健康組合理事等を退き、今ようやく自分だけの時間を持てるようになりました。
今年は妻と二人でQOL向上のため、透析しながらオーストラリアヘ旅行してきました。
透析患者が『金の切れ目は命の切れ目』の時代から今のように安心して生活出来るようになったのも、私たちの先輩の並々ならないご苦労があったからだと、つくづく思います。
それにつきましても、昨今の経済環境の厳しさは、患者会の役割の重要性を再認識させます。私も、及ばずながら身体の動く間は、患者会の活動に参加していきたいと思っております。
東腎協 1999年10月25日 No.130
最終更新日時:2001年4月15日
確認:K.Atari