☆一週間毎日参し、頼み続けてやっと透析を受ける
斉藤
尿毒症が悪化し、入院先の病院から「あと、一週間の命」と宣告され、「なんとか、生き延びる方法はないか」と、担当医に必死に相談したところ、「透析という道があることはあるが」と説明されました。 透析とは何かも知らずに、「目白に個人経営の施設がある」と場所だけを聞き、飛ぶようにして行ってみましたが、「受け入れる余地はない」と、簡単に断られました。それから、家内と家内の家族が一週間日参し、泣いて頼んで、ようやく透析ができたというのが実態です。
当時は透析機が極端に少なく、その施設もわずか二台でしたから、医者が選んだ患者しか透析を受けられませんでした。このように、医療費の助成もなく、金の切れ目が命の切れ目でした。 今は、透析が必要になれば、医者が施設を紹介してくれて、すぐに透析が受けられ、障害者の医療費助成が適用されて夢のような恵まれた時代になりました。現在のような時代が末長く続くといいですね。
☆食べられない、飲めない
斉藤 週二回、一回八時間の透析で、わずか1キロ程度しか除水できません。食事は少量、水も殆ど飲めませんでしたから、栄養不足になり、「ヘマト14%、心胸比60%」は普通でした。透析中は食事はもちろん、お茶も飲めず、おやつの飴のような物と、喉が渇くとガーゼを湿らせ、口にくわえていました。当時の習慣で、今でも体重は少ししか増えませんが、透析中に食事もお茶も飲めるのがとても幸せです。
☆内シャントになって思い切り手を水に漬けた
斉藤 念願の内シャントができた時は嬉しくて、看護婦さん達と海水浴に行き、何回も手を海に入れました。外シャントでは、風呂に入るのも手にカバーをして、濡らさないように入っていました。
斉藤さんから透析導入時の話をうかがい、昔は簡単に透析に入れなかったことを改めて認識させられました。今はだれでも、どこでも、いつでも、透析が必要になれば医療費の心配なく透析に入れるから、何も感じないでいるが、大変なことなのだと思います。このことに患者会の果たした役割は大きなものがあります。私たち新しい役員も温故知新というように設立時の状況を知ることによってこれからの患者会活動に役立てていくことができると思います。
斉藤さんは、透析導入後初めて腸閉塞で長く入院して、足が弱っていますが、あけぼの病院の対応に感謝していました。また、顔色も良く、お元気でした。一日も早い退院をお祈りしています。(取材 清水・写真 東野)
志垣 春子さん 吉祥寺クリニック腎友会 透析暦 25年
☆透析を始めてから結婚
今回特別インタビューをした 志垣春子さんは、吉祥寺クリニ ックで透析をしている、笑顔を 絶やさない素敵な専業主婦です。 志垣さんが透析を始められたのは、昭和四七年、諸先輩の努力・陳情で身体障害者福祉法が改正され、内部障害者に透析が認められた年の翌年でした。透析導入は熊本市内の済生会で、最初は週二回、六時間透析でした。そのうち心胸比が大きくなり週三回に変わりました。 志垣さんは、透析を導入して10年目の昭和57年に、健常者の旦那様と結婚されましたが、現在幸せに年を重ね、結婚して15年経過しています。 透析者と健常者の結婚は大変珍しく、私の回りでも今までにあまり聞いたことがありません。私も大変関心があり、志垣さんに“馴れ初めを聞かせてもらいました。
☆結婚の馴れ初め
今から約20年前、透析を始めて五年位経った頃、志垣さんは昼間アルバイトをして夜間透析をしていたのですが、6時間透析のため真夜中になったり、遅く疲れたときは病院のベッドでそのまま寝たりしていました。 それでも彼女は日曜日は、クリスチャンのため教会に通っていました。彼もクリスチャンで、年下ですが中学時代から知っており、同じ教会の青年会のメンバーでした。透析で帰宅時間が遅くなる話を聞いた彼から、ボランティアで帰りを送る申し出がありました。
☆結婚へのゴールイン
三年位たち彼から結婚のプロポーズがありましたが、始めは彼女にまったくその気が無く、一年半位断り続けました。彼の実家が保育園だったせいか、彼は大変子供好きでもありました。また長男であるため親が猛反対、それでも彼の意志が大変強く、親と絶縁状態になりました。クリスチャンである彼女の回りの婦人会や友達の暖かい祝福で、幸せな結婚式を挙げることが出来ました。 結婚当初、彼女は透析をしているので“自分は早く亡くなり、彼が他の人と結婚して子供のある生活をした方が良いと思うこともたびたびありました。結婚してからは、規則正しい生活になり、かえって元気になり、今は彼に大変感謝しています”と話されました。 お陰様で、今は彼の両親とも親しくなり大変うまくいっているそうです。
☆これからの希望
現在、昼間透析を週三回していて順調にいき、病院に感謝しています。今の楽しみは二人で一泊の旅行、もちろん旦那様の運転で色々楽しんでいます。“これからは二人でひとときも長く、楽しい張りのある生活を送りたい。また二人で大事な時間を積み上げて歳をとって行きたい” 志垣さんは、最後に笑いながら旦那様に巡り会えた自分の幸せを改めて噛み締めているようでした。私逹からも、“これからもこの幸せが永遠に続きますように”つい言葉が口から自然にでてました。
志垣さんの話に私の心も大変幸せになり、これからのたくさんの若い透析患者の人生の一つの生き方になることと思い、それを実現するには凄い勇気が必要なことと共鳴しました。
(文、東野・写真、井上)
清瀬市にある内部障害者更正施設清瀬園内の医学技術専門学院で、副学院長として後進の指導に当っている中脇さんを訪ねました。
|まず生年月日を
昭和24年10月20日生まれで四十七才です。
☆もっても二年と言われた
|透析導入のきっかけは
昭和四十三年一月、高校三年で受験勉強中でした。前日まで普通に通学して、体育などもしていたのですが、近所の人に顔色が悪いと言われ近くの開業医で受診したところ、血圧が高く尿蛋白も出て、腎機能検査では腎機能が殆ど無くなっているので、即入院と言われ翌日紹介された病院に入院。
一カ月ほど絶対安静でした。その病院では透析ができず、手の施しようがないと言われたのですが、運良く、虎の門病院に移ることができ、五月から腹膜透析を導入しました。
|血液透析を始められたのは
一年後の四十四年五月から血液透析になったのですが、医師から家族には、もっても二年位と言われるぐらいでしたので、私自身その後二年位は何も考えられる状態ではありませんでした。
|その頃の透析自体大変だったのでしょう
機械も少なかったので、よほどのことがないかぎり週二回で一回八時間位、透析液は二人で使うので、上流の人が熱をだすと下流の人も熱をだすなんて事もありました。
☆自分を制限し過ぎずに
|ところで、この清瀬園との出会いは
血液透析を始めて三・四年経ったころ、少し体調も良くなってきたので、何とかなるかもしれないと、途中で断念した大学に入学し、教職課程を修了して卒業したのですが、思うように就職できませんでした。それで以前聞いていたこの清瀬園に三十一才の時に入園し、再び勉強して三年後臨床検査技士の免許を取得して、ここの職員、臨床検査学校の講師として採用され今日に至っているんです。
|大変努力家なんですね。透析でも努力されたと思うんですが、三十年の秘訣を是非
やはり一番気をつけたのは、水分、塩分、カリウム、体重を増やし過ぎないことだけですね。でも食べないと体力が落ちるのでデータを見ながら、気分的には少し少なめですが、しっかり取るというなかなか難しいことでけど、そして、自分に余り制限を設けないことですね。
透析というと周りからも病人扱いされてついつい自分のやりたいこととか行動範囲を狭くしてしまいがちですが、そこを自分で制限しないで、後で後悔しないようにいま出来ることを大事にしていきたいと思っています。そして、体力的にも少し負荷をかける位にした方が、元気さとか今の体調を維持できるのではないでしょうか。
|有難うございました。 三十年の重みを感じる貴重なインタビューでした。透析患者を含めた内部障害者の社会進出のために、ますますのご活躍をお祈りいたします。 (文・写真 軽部)
戻る☆導入の頃
腎不全、それは、突然やってきました。 スキー場で風邪をひき、それがなかなか治りませんでした。(昭和四七年一月のこと)
二月に入ると、朝、起床するのが辛くなり、会社へ行っても具合が悪く、ソファーに横になったりしていました。会社が医学書関係の出版社ということもあり、上司の勧めで慶応大学病院を紹介してもらい、それから中野総合病院に移り、そして代々木病院へと転々とし、やっと都立大久保病院にたどり着きました。 (すでに腎不全状態であり、当時は透析の機械が不足していたので)
この間、昭和47年4月に都立大久保病院腎不全センターがオープンするまで、代々木病院で待機させられ、精神的なショックも大きく、この頃が一番辛い時でした。 昭和47年4月から一ケ月は、腹膜潅流をやり、五月から血液透析を導入しました。
☆楽しかった思い出
透析終了後、仲間の人たち四人で、よく、歌舞伎町の喫茶店で、当時、食事制限が厳しく、飲んではいけないコーヒーを飲んだり、氷を食べたりしたことを思い出しました。 昭和52年に、初めての海外旅行で香港に行きました。国内旅行はもちろん、海外旅行等、諦めていたので、初めて飛行機に乗って行けたことは感激でした。香港では、映画「慕情」の舞台にもなったレパルス・ベイが思い出に残っています。
☆二五年経って感じること
今、振り返って考えてみると、ゆるやかに過ぎた二五年だったような気がします。 内シャントの手術を三回、昭和五五年に副甲状腺の手術をしましたが、それ以外は、バネ指や手根管の痛みもなく、これといった手術をしたり、入院することもなく、比較的、順調に過ごしてこられたと思います。 現在、不整脈が出て心配になることもありますが、いろいろな合併症で苦しんでいる人がいる中では、幸せな方だったのではないかと思っています。 これも、都立大久保病院で運命的な出合いともいえる、現在の稲田院長のお蔭様で、導入から今日まで、お世話になっております。
☆私のモットー
自分を活性化させるために、最近、次のようなことを心掛けています。
―私の3K―
(何事にも)興味を持つこと 感動する心を失わないこと 思いついたら行動すること
☆今、楽しみにしていること
四年前に会社を辞めましたので、体を動かさないためか、中性脂肪が上がってしまい、そのため、家から近くの読売ランドまで散歩するようにしました。読売巨人軍のファンなので、その近くのジァイアンツ球場まで足を運び、若い選手を応援しています。その中から将来どんなスター選手が誕生するか楽しみです。
(いつまでも、ゆるやかに流れる毎日でありますように ―インタビュー 糸賀)
山本淳三郎(立川相互腎クリニック希望会)
筆者と同じクリニックに通う、57歳になる山本さんに、透析を終えたあと、待合室でインタビューしました。
−透析導入の頃のことをお話しください。
昭和46年、五月、身体の異常を感じて、会社の診療所で受診・検査をしたところ、尿蛋白が出ていると言われたのが、最初でした。その後、慢性腎不全と診断され、食事療法などをしてきましたが、二年後の48年六月、とうとう呼吸困難になって東邦医大病院で腹膜潅流を始めました。
−その腹膜潅流はどうでしたか
最初の3回くらいが大変でした。500の還流液を四本分、お腹に入れて、一時間後に排液し、また、新しい液を入れます。それを24時間持続して、やっと一日休み、二回目は26時間持続して、一日休み、三回目も24時間。その潅流液も温めて入れなければならず、看護婦が付っきりというわけにもいかないので、妻や会社の同僚が交代で面倒みてくれて、それは大変でした。四回目からは機械で自動的に交換するようになり回数も減りました。週二回、でも、時間は一回二四時間と変わらず、長かったですね。一ヵ月ほどして、透析になったのですが、腹膜潅流に比べてなんて楽なことかと思いました。
−お仕事の方は
自動車会社に勤務しています。透析導入の頃に二年ほど休みましたが、同じ職場に復帰して、いまも同じ仕事をしています。職場の人たちも、非常によく理解してくれ、励ましてくれるので、仕事は快適にやっているのです。また、自分自身も仕事が好きで、長い夏休みなどにかえって調子を崩すぐらいです。
−いい会社・職場に恵まれましたね、ところでご家族は
家内と息子一人です。こうやって生きてこられたのも、家内が食事など手抜きしないで、バランスよく作ってくれて、今でも、会社には弁当を持っていくなど、よくやってくれたおかげだと思います。そして、透析導入の時、五歳だった息子もいつの間にか、やさしい保護者になりました。そして、この九月に結婚して、一つの区切りを迎え、ここまで無事にやってこれたことを、大変うれしく思います。やはり家族が一番の支えですね。
−最後に長年、元気だったご自身の秘訣と伝えたいことは
元来、神経質だったのですが、いつしか、具合の悪いときは、「降りはじめた雨はいつか止む」とか「時がすべてを解決する」というように淡々とした気持ちで過ごしてきたことです。普段の管理では、時には、息を抜いて食べたいものを食べ、飲みたいものを飲む、食べることも人生の楽しみの一つですから。しかし、週末には残さないように抑えるところは抑えるということが、長くやってきた秘訣ではないかと思います。
そして、医療費が高額な透析を自己負担無しで、受けて生きていけることに感謝して、自分のできること、楽しみを見つけてがんばってほしいですね。
最終更新日:平成13年3月16日
作成:Tokura