戻る

第76回会員さん訪問

  中村 明彦さん 腎研友の会

絵はあきらめろと言われたが、 なにくそと、11回目の個展

前 文

 有楽町駅から近い、外堀通りの「花の木」というギャラリーで個展を開催中の、中村さんを訪問しました。車の混雑のため、遅れて到着した中村さんはとても若々しい方で、作品の美しい色を表現する心を持った方でした。。
芸術家らしく、俗的なことは超越して、青年の気分を漂わせている方です。しかし、患者会のことも、真剣に考え、同席した原副会長と腎研友の会の話を熱心に交わしていました。

―透析導入時はどのような経過でしたか。

中村 何か雲の上を歩くような感じで、近所の医者に行きましたが「様子を見よう」ということでした。でも、日大板橋に行って、すぐお茶ノ水の日大に救急車でまわされました。その時、初めて、透析という言葉を聞きました。
パリに絵の勉強に行く際、出発の前に、保険に加入するため、健康診断をしたら、蛋白が出ているが、心配ないから行っていらっしゃいといわれたのです。留学中はヨーロッパをワーゲンで廻ったりしました。 結婚した後、一九七五年に再度パリに行って、そのあと、一九七七年の一月に透析導入しましたので、結婚してから一年と少しでした。

未亡人にしたくなかった

その時はカリウムが八・いくつもあって、もう危ないといわれました。スペインに行く予定で、調べたら、即、透析導入でした。そのころ妻は二九歳で若かったので、未亡人にしたくなかったです。一生だということで、遺言書を書こうと思いましたね。

―透析導入後は大変だったでしょうね。

中村 当時、二〇〇号(壁画)の大作に取り掛かっていました。先生からは絵の制作には精神的なシャープさを必要とするからあきらめた方がいいと言われました。大作も透析導入後完成させました。
しかし、絵画というものは入選しただけではだめで、個展を開かなければなりません。22年前、透析導入してすぐ、第一回目の個展を開きました。そのときも、病院のスタッフや仲間が来てくれました。その後、ニューヨークでも個展を開き、向こうの画商が、ニューヨーク在住を条件に接触してきましたが、アメリカでは透析で長生きできないと聞き、あきらめました。今回は2年ぶりで、11回目の個展になります。

―プロとして活躍されているようですが、その努力は。

中村 プロというのは売れるか売れないかが問題ですから、二倍、三倍のエネルギーが必要です。透析をやっていることは私の制作とは何の関係もありません。病人ではないと思っています。

弓のように堪える力

プロとしてやっていくには弓のようにしなやかで、強い精神力を要求されます。ニューヨークでも一〇日間で二回透析を受けて、あとは、カリメイトを朝昼晩、二包づつ飲んでいました。尿も出ていましたから。ニューヨークの画廊は床から天井まで五メートルもある、施設で、全部壁画で、100号単位の作品で、壁をうめました。
ニューヨークのギャラリーが2000枚の案内状を配って、初日のオープニング・レセプションに50人来ればいいと言われたところを、150人が集まりました。
妻がマネージャー的な仕事を果たしてくれています。ニューヨークの後、リヨンの郊外のお城で作品を展示しました。

―患者会についてはどのような考えをお持ちですか。

中村 患者会にはすぐ入りましたよ。その当時の会長さんが初代の人で、23歳で透析導入して、若かったのですが、31歳で亡くなってしまわれました。織物工場の御曹司で、ずいぶん親しくしました。
なにもしないでいる人がいたら、患者会に入って、みなと一緒にやっていただきたいですね。患者同士があまり、話さないのは、何故だろう。役員と会員との交流をもっと多くしてほしいですね。

目指すものがある

今は、自分の制作が忙しいので、あまり関れないです。私の家は、レストランを経営しているので、役員になっているから、基本的な収入は得られます。絵も売れることが大事といっても、売れなくても良いと思う。けれども、趣味でやっていれば気が楽だけれども、周りが許してくれません。今では、コレクターのファンの人々は全国に広がり、政治家や大学の教授から、芸能人や社長、かと思えば、赤坂や銀座のクラブのママさんたちと人脈ができています。中でも、五月みどりさんには「どうして、こんな美しい色が出せるのかしら」と言われました。

―これからの夢は何でしょうか。

二〇回目の個展を目指して、いきたい。そのうち、一回はパリで開催したいものです。若いころパリで勉強したので、一度、パリで自分の作品を見てみたいのです。
目指すものがあるから、透析の自己管理も投げやりにはできません。
病院でも、みんなと一生付き合う関係なので、人の話を聞いてあげるようにしています。みな、いろいろなことを相談してきますよ。手根幹も絵を描くには影響はありません。全生活、押さえるところは、押さえています。

あとがき

気取らない、すぐ話して溶け込める雰囲気で、やはり、いつも美しいものを見て、それを美しく表現している芸術家だなと、思いました。
私たちがインタビューしている間も作品を見にこられた方々が多く、奥様が、相手をしていました。あまりお待たせしても、申し訳ないので、もっと聞きたいこともあったのですが、早めに切り上げました。いつまでもプロとして、第一線で、個展を開催する画家でいてください。

(文・木村 カメラ・久保)

なまえ
なかむら あきひこ
透析導入年月日 1977年1月

東腎協  2000年 月25日 No.135

戻る


最終更新日時:2002年8月22日