今回は、聖路加ニーレ会の戸枝義明さん(76歳)を、透析中におじゃましてお話を伺いました。平日は、東京のキリスト教関係の国際教育や平和運動の事務所でお仕事をして、日曜礼拝には仙台の教会で牧師さんをされていて、お年とは思えぬ活動的な方です。
なまえ:とえだよしあき 透析導入年月日:1988年 |
透析導入ですっかり元気に
―透析までの経過は、どうだったのですか?
戸枝 最初は、高血圧で友達の医師のいる別の病院で診察を受けていました。1993年から年々内臓も弱ってきていたのですが、仕事場の近くでもあり、ちょうどキリスト教の関係でもあったので国際聖路加病院で診察を受けていました。
6年前の夏ごろ海外に出掛けて帰りに東京で胸が苦しくなり、病院で診察を受けたところクレアチニンが10を超えたので、いよいよ透析だということで、シャントを作りました。その3カ月後に透析を導入しました。
透析後は、血圧も安定して非常に調子がよいです。
心の医師を目指して
―牧師さんになられたのは、どのような経緯でなられたのですか?
戸枝 1945年の敗戦の年に中国のハルピン(現中国東北部、黒龍江省)の医科大学に在籍していましたが、帰国を余儀なくされ、それを転機に「心の医師」をめざし、東京神学大学で学び牧師になりました。
―現在の国際交流教育関係のお仕事をはじめられたのはいつごろからですか?
戸枝 1960年にドイツに留学してベルリンや当時の西ドイツで学びました。その時の縁で、1970年ころニューヨークの国連で働く機会を得て、その時に知りあった方に紹介されて、日本の子供達をカルフォルニアに呼ぶ活動に従事しました。もう、30年以上に亘ってその活動を続けています。
活動拠点は、ロサンゼルスとサンフランシスコの中間のサンルイスオビスポという町で、日本全国の子供達を募集して、夏休み期間などで語学、国際体験を中心にした留学の世話をしてきました。
―その他沢山の外国に行かれると聞きましたが。
戸枝 1974年から当時のソ連のロシア正教会との交流をはじめました。当時、東欧諸国のキリスト教との交流は行われておらず、なかなか大変でした。
その時は2年に1回の割合で東京とモスクワで交互に会議を開きました。
また、東欧諸国との連携のためキリスト者平和会議なども1992年まで開催されました。
良い点を取りいれてほしい
―海外での透析経験もおありですか?
戸枝 ドイツのベルリン、ハンガリーのブタペストなどのヨーロッパでも行いました。また、フィリピンのマニラの透析施設は立派でした。世界の透析を見ているとかなり発展しているところがあり、日本もよいところをどんどん取り込んでいってもらいたいものです。
―ご高齢にもかかわらずお元気でご活躍なされていますね。
戸枝 周辺の友達は、リタイヤしている人が多いのですが、透析のお陰でまだまだ元気に働けて、感謝しております。
また、病院も食事について意見をいいますと、アンケートをとってくれる等対応をしてくれます。
改築で病室を移る際も、テレビをコイン式にするとの意見が出ましたが、病院らしくないと反対しましたところ、普通のテレビが1台づつつくことになってよかったと思います。
こういったことは、他の病院はどうなっているのか等の情報を欲しいところです。
透析機械の歴史を知りたい
また、今、勉強をしたいのは、透析機械の発展等の歴史的なところです。私の母も35年ほど前にやはり腎不全になったのですが、そのころは透析が実施されていたかどうはさえ知らないのですが、透析医療を受けることができませんでした。現在、ずいぶん発展していているのでその経過や今後についてよく勉強したいです。
〈あとがき〉
今回は、透析中にお話を伺うという大胆なことをしました。それはこちらのスケジュールと、内容でもお分りのように、お忙がしい方なので、土日は仙台にお帰りになります。そのために、こうなりました。本当はご活躍している平日に訪問をして、撮影もできれば良かったのですが。透析室の看護婦さんに案内され、透析椅子で透析を受けておられるところにまいると,話しを伺えるように、こちら用の丸椅子が用意されていました。(聖路加国際病院透析室スタッフの方方ありがとうございました)
第一印象は、大人しい上品な方で、丁寧にお話をしていただきました。透析中にも関わらず、「にこにこ」されて、透析中であることを忘れて話し込んでしまいました。そういった外見にも関わらず、お話の内容は、積極的なものばかりで、常に世界に向けて活動されてきた闘士のように見うけられました。
現在でも現役で活動され、それに対して、忙しさや疲労感などの負の感想を一言も発せられず、患者会活動でも病院の環境には、きちっと意見を述べていたり、これから透析の歴史を勉強しようとする姿は、人生の先輩として尊敬できます。
いつも忙がしさを言いわけにしている自分が恥ずかしくなります。
そういった意味で、とても勉強になった取材でした。
(文 久保・カメラ 木村)
最終更新日:2001年10月6日
作成:Tomoko Ono