会員さん訪門 第81回 小池会
森田京子さん
透析導入年月日:1995.6.6
幼児教育にかかわって
将来は先生を育てる仕事に
今回は公立の幼稚園の教諭という仕事が天職であるという森田京子さんです。青年部料理実習に参加される予定でしたので、労働スクエア東京においでいただきお話を聞きました。その後、研究発表の準備で急きょ出勤となり、インタビューの後、帰られました。
突然カーテンが落ちて
――腎臓病はいつからですか。
森田 高校生の時からタンパク尿が出ていて、就職後の健康診断の時も、治療中ということで済んでいました。一度は精密検査を、と言われていましたが、クラス担任で、休めず、特に症状も無かったので、あまくみていました。
今思えば、子供と小学校の校庭を一周したり、駅の階段の昇りで息切れしたりするなど、苦しくなることがありましたが、年かなぐらいで、腎機能悪化によるものとは思っていませんでした。
――透析導入時の状況は。
森田 1995年の誕生日のことです。朝、起き上がれなくなっていました。それで、これはだめだと思い、休みをとって病院に行きました。直ぐ入院、透析でした。時間を争って透析しなければならないほど、切迫した状態だったようです。
血圧がものすごく高く、貧血もひどかったようでした。すでに腎性の網膜症で目が見えなくなっておりました。新聞の字は浮上がり、テレビも見たくないという状況でした。数を数えれば途中でわからなくなるし、担任している子供の名前も全員が出てこない状況で、もうろうとしていました。
――挫折感はありましたか。
森田 いきなりカーテンがバサッーと落ちてきたような、一つの幕切れという感じでした。海外にもよく行っていましたし、仕事も、旅行も、スポーツも一切出来なくなるのではないか、もう、絶望という状態でした。しかも、いきなり透析導入で事務的に、あーしろ、こーしろと言われ、何がどうなっているのかサッパリわからない状態でした。そういう時に友達が仕事で忙しいにもかかわらず、かけつけてくれたり、毎日のように励ましの手紙をくれたりしたことで非常に勇気づけられました。
仕事がリハビリ
――社会復帰はどのように。
森田 1ヵ月の入院で体が弱っていましたので、早く復帰したいとの思いで、毎朝、家族の助けで歩く練習をしました。幼稚園で待っている人たちがいるということと、家族の支えが励みになりました。もし、その時担任でなかったら、仕事を辞めていたかもしれません。職場へは3ヵ月で復帰しました。
――透析は順調ですか。
森田 入院後2ヵ月は辛かったのですが、その後は、透析も特に問題は無く、透析中に休むという感じです。1年後には海外に行くことができ、透析をしている自分をやっと、受け入れることができました。
青年部主催の鶴田先生の講演会で、笑うこと、歌うこと、体を動かすことの大切さのお話しがありましたが、まさに私がしている仕事そのものです。仕事がリハビリみたいなものですね。無理はしてはいけないと言われるのですが、つい全力で頑張ってしまいます。
――透析による仕事への影響は。
森田 朝は8時ごろ子供が来る前に出勤して、2時までは体を動かす仕事で、その後はデスクワークになります。際限の無い仕事だから時間的な制約が厳しいです。透析日は遅くまでできないので、その分、家で仕事をするとか、持ち帰って透析中やることは多いです。
透析日は4時半で終わり、有給休暇が時間で取れるので1時間取らせてもらって、それで消化しています。1年でちょうど消化するような形です。しかし、仕事が長引くと先生やスタッフの皆さんにご迷惑をかけることもしばしばあり、申し訳なく思っています。
幼児教育を専門的に研究
――教育研究所で幼児教育の勉強をしたそうですね。
森田 少し、現場を離れて、学術的な勉強をしてみたい、自分を試してみたい、と思い、都立教育研究所の試験を受けました。一年間、論文の書き方のイロハから、論文の内容について多角的に、指導を受け、幼児教育や小学校教育について、かなり専門的に勉強しました。研究成果として「自ら考え自信をもって行動する幼児の育成」という主題で研究紀要を作りました。この一年間で、いろいろな人と出会い、人の輪と視野が広がり自分の大きな財産となったと思います。仕事でその研究を生かし、本年度は研究発表もしました。
――透析に対する職場の理解は。
森田 職場の同僚へは透析していることは理解してもらっていますが、園児や保護者には心配するので言っていません。ただ、シャントだけは気をつけています。子供たちにも心臓と同じで大事なところだからと言います。言えばわかってくれます。
体力的にはそろそろ厳しくなってきました。後2〜3年ぐらいかなと思っています。体力の続く限り今の職場にいて、将来は幼稚園の先生を育てる仕事など、幼児と何らかの形でずっと関わっていきたいと思っています。
人を思いやるようになった
――透析になって変わったことは。
森田 人の顔色に敏感になりました。体の弱い子にたいして、以前はお母さんの健康管理が悪いんじゃないかぐらいしか思っていませんでした。そういう意味の理解は随分変わってきて、相手の立場を考えられるようになりました。
健康な時というのは、人を思いやることはなかなかできないですよね。自分がそういう身になると辛さとか大変さがわかる。持病を持ったお母さん、障害のあるお子さんやご家族に対する気持ちは以前と違います。考え方もより前向きになりました。透析しているから駄目ではなく、なんでも当たって砕けろで、やってみようの精神です。海外へも毎年行っていますので、透析中の英会話もなんとか話せるようになりました。
――患者会活動については。
森田 病院患者会の東腎協幹事の仕事をすることになりました。東腎協の活動にもなるべく積極的に出て、皆さんにいろいろと教えていただければと思っています。
〈あとがき〉
「突然の透析導入のショックから、気持ちを切り替え、生まれ変わって、今6歳と思っています」とのこと。障害者となって知ったことを、今後の幼児教育に生かしていただきたいと思います。
(聞き手 小野/文・カメラ 戸倉)
東腎協 2002年1月25日 No.141
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最終更新日時:2002年3月12日作成:S.Tokura